他者
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三浦藍華。
それは、僕の知りうる限りの人たちの中で唯一、僕のために泣いてくれた人の名前。その涙は錆びきって動かなくなった僕の心を動かした。具体的にどう動いたかは言うまでもない。
初めて、本音で、素直な言葉で話しかけてくれた人だった。相手がどんなに固く心を閉ざそうとも、そんなのお構いなしで、土足で踏み込んでしまうような人だった。僕はそれがむず痒くて、けれどそのむず痒さが「嬉しい」という感情だったことを忘れていた。だから僕はその感情を悪意に変えて、全部全部後ろ向きに捉えるようにした。そのむず痒さは不愉快だと思い込むことで僕を守ったつもりになっていた。その上、思い込みで武装した僕を更に塗り潰して、思いやりなんて嘘くさい感情で悪意を覆い隠した。
僕はもう二度と傷つきたくなかった。
僕自身の思いから出た言葉は、やがて必ず僕を苦しめる。そうなるくらいなら嘘つきでもいいから苦しまない道を歩みたかった。
けれどそれは間違いだったと気づく。
「もう——ばっかぁ! ばかばか、ばかばかばか! 潤のばか! 藍華、ずっと寂しかったよ。潤にきらいだっていわれて、あたし、くるしくて、ぎゅってなって、なんかもうわけわかんなくなって、それでぇっ……!」
「ごめんね——僕は、君のことを考えてるつもりになって……。本当に、僕は……」
ありったけの力で僕を殴りながら叫ぶ藍華に、ほんの少し気圧される。中身はともかくとして体は藍華の方が大きいのだ。こちらが十六であちらが二十歳だということをどうか忘れないでもらいたい。
なんてどうでもいいことに思考を移すことでどうにかこの動揺を抑えられないだろうかと思ったのだが、どうやら失敗のようだった。そういえば僕の中身は六十四歳だった気がする。にしてはなんだか不相応な気分だ。どちらかと言うと体の年齢、つまりは僕の本当の年齢に近い感じだ。しかし、それはおかしい。ここにいる僕は「定数」によってちょっとおかしくなっている。にもかかわらず現実の僕と混ざっているのは一体どういうことなのだろう。もしかしたらこれも——。
「……空気を乱すようで申し訳ないのですが、定数が余計なことを考えている間に奇数が大変なことになっていますよ?」
「え? あ……あぁ」
はっとして藍華を見る。彼女は堰を切ったように泣き出し、涙を袖で拭っていた。そのせいで両袖が涙に濡れ、色が変わってしまっている。僕はジーンズのポケットにハンカチがないか探った。すると、左側のポケットにそれらしい感触があったので引き抜く。
「う——わっ……ぁ」
出てきたのは、確かにハンカチだった。
ハンカチではあった。
ただし、血まみれの。
「? ど、した、の?」
しゃくり上げながら問いかける藍華に、僕は慌ててそれを隠した。藍華には見せたくなかった。触っていたくはなかったが、僕は仕方なく左手に握って背後に隠す。
「ふん……なるほど。——ああ、奇数。ハンカチでしたらこれをお使い下さい」
引きつった笑みを浮かべながら静止する僕を横目に、雨帝がハンカチを手渡す。藍華はそれで鼻をかんでいた。これには流石の雨帝も軽く青ざめる。しかし僕は別の理由で青ざめていた。おそらく、大半の人間は僕のこの状態が理解できるだろう。
今、僕の手の中には血付きのハンカチが握られている。
気持ち悪い、というより怖いという思いの方がずっと強かった。しかし、それで気を張ると余計に疲れる。すると更に恐怖が倍増してしまって悪循環だった。正直言って、今すぐに倒れ込んでしまいたい。
「それと——定数。アナタはこれを持っていなさい」
顔面蒼白の僕に、雨帝が黒い袋を渡す。僕はそれを拒否して、代わりに雨帝の腕を掴んだ。思っていたよりずっとしっかりした腕だった。しかしそんなことを気にしている場合ではない。もう我慢の限界だった。僕は決死の覚悟で口を動かす。
「えっと、倒れます」
「はい、運んでおきます」
雨帝が早口で何か言ったが、はっきりとは聞こえなかった。しかし、どうやら後のことは雨帝に任せておけば大丈夫そうだ。僕は一気に緊張を解いた。思考が遠ざかる。
閉じていく世界の中に、藍華の声が聞こえた気がした。
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