もう一つの危険
襲撃から数日がたった。蘭珠は、もともと翠楽と滞在していた村に戻ることなく、景炎の天幕に寝泊まりしている。蘭珠のためにも天幕を用意してくれるという話だったけれど、彼の側を離れたくなかったからそれは断った。
景炎のもとにはひっきりなしに部下達が出入りしているが、彼らがいる時には、蘭珠と鈴麗は外に追いやられてしまう。
そういう時は、天幕のすぐ外でおとなしく話が終わるのを待っていた。
部下達が全員引き上げ、景炎がうとうととしている横で、蘭珠は鈴麗を手招きした。
「なぜ、景炎様を襲ってきたのか――証拠を集めてもらわなければ、ね」
景炎の側を離れるわけにいかないから、鈴麗に動いてもらう。
「皇太子の差し金ではないのですか」
「……皇太子妃の言葉だけでは証拠にはならない。私のでっち上げと言われてしまえばそれまででしょう」
国内の有力者田氏の娘である翠楽と、他国から嫁いできた蘭珠では後ろ盾がまるで違う。翠楽の方が圧倒的に有利なのだ。
「皇子達の中での序列も、景炎様は高いというわけでもないしね。だから……難しい。いろいろ考えてはいるけれど」
「何を考えているんだ?」
「景炎様!」
寝ていると思っていた景炎が起きて、蘭珠はひやっとした。あまりにも百花のことなどを無防備に話していたから、冷や汗が落ちる。
「――今後のことを、いろいろと。鈴麗、頼んだことを片付けてきて」
「かしこまりました」
翠楽の護衛として、ここに来ていたはずであるけれど、翠楽を放置してこちらまで来てしまった。そのことも合わせて確認してもらわなければ。
「皇太子妃のことなら、心配する必要はない――それに、国境での戦は、決着がついた」
「そうなのですか?」
全然気がついていなかった。自分はいったいどうなっているのだろうと思いながら、蘭珠は首を傾げる。
「だから、処理が終わり次第引き上げる。とはいえ、成都に軍と一緒に戻る必要もない。どうせ、総大将は兄上だし、途中に温泉があったから、そこでしばらく養生するか」
「……それもいいかもしれませんね。後のことは、皇太子に任せておけば安心でしょう」
ここでの戦について、誰がどんな手柄を立てたのか。皇太子が好きなように皇帝に報告すればいい。景炎もそれを狙っているのだろう。
実際に、温泉で療養した方がよさそうではあるが。
蘭珠を招き、自分の側に座らせて景炎は笑った。もう、完全にいつもの調子を取り戻しているみたいだ。
「お前は鋭いな――先日襲ってきた一団は――蔡国の兵ではなかった」
「今、なんて?」
あまりにも思いがけない言葉に、蘭珠の声が裏返る。
「蔡国の者ではない、と言ったんだ――正確には蔡国の出身者ではあったが、何者かに雇われた者達だった」
蘭珠が黙ってしまったのは、受けた衝撃があまりにも大きかったからだった。
――蔡国ならば、わざわざならず者を雇うはずはない。今、このあたりにいて、景炎様が邪魔だと思っているのは……皇太子くらい。
龍炎と景炎の仲がしっくりいっていないことくらい知っている。それは十年後も変わらなくて、龍炎が皇太子として即位した後、景炎は辺境へと追いやられたくらいだ。
「……景炎様を、殺そうとなさったのですか」
「まあな。以前から、しばしばあったし、気にもしていなかったが」
「しばしばって!」
――あまりにも気楽な様子に、つい声が裏返る。
景炎が困ったような表情になった。そんな顔を見たくなくて、蘭珠は目を反らす。
「兄上が俺にどんな感情を持っていたとしても、皇帝になるべき人間なのだから、俺は礼を尽くし、忠誠を誓うべきだと思っている。だが、どうやらそれもお気に召さないようでな」
「皇太子は――きちんと国を治める皇帝になると思います。ただ――」
龍炎は意志の弱いところがあり、また皇太子であるが故に兄妹達の中でも優遇されてきた。それが全てに通用すると思っているようなところもある。
「あの方のなさりようを見ていたら、人望が集まるとは思えません。だから、焦っているのではないでしょうか――景炎様が、自分に忠誠を尽くすと信じられないというか」
もし、景炎が自由に主を選べる立場だったなら、きっと龍炎を選んだりしない。他に優れた人材はいくらでもいるのだから、そちらに行けばすむ話なのだ。
だが、景炎は皇帝一族の皇子として生を受けた。そして、上に立つ皇太子は龍炎だ。
龍炎が上に立つと決まっている以上、景炎は龍炎に絶対の忠誠心を捧げるつもりでいるであろうことを蘭珠は知っていた。
そんな話をしていたら、龍炎が景炎の天幕に入ってきた。景炎の側に座っていた蘭珠は、慌てて床に下りて頭を下げる。
そんな彼女に向かって鷹揚に手をふり、尊大な口調で龍炎は口を開いた。
「景炎、怪我はもうよいようだな」
「――兄上」
二人の間に火花が散るのを目の当たりにしたような気がした。蘭珠の背中を冷たいものが流れ落ちる。
龍炎は鷹揚な笑みを口元に浮かべていたけれど、それくらいで今は誤魔化されたりしない。
――この方は、景炎様を蹴落としたり辱めたりするためなら、きっと何でもやるんだから。
蘭珠に手を出そうとしたのは、景炎に恥をかかせるため。あんな風によその国から来た公主に手を出すなんてありえない話だ。
「妃と、話をしておりました」
「お前の妃が何でこんなところにいる? 翠楽の護衛を任せていたと思うのだがな」
その言葉に蘭珠はかっとなって思わず口を挟もうとした。
――先に手を出してきたのは、そちらではないの!
けれど、肩に回された景炎の手にぐっと力が込められる。彼は蘭珠を自分の側へと引き寄せた。
「皇太子妃なら、他の者が警護についていますよ。問題ありません」
「――だろうな。今朝、こちらに押しかけてきて、大騒ぎだ。お前の妃がこちらに来ているのなら、自分が来ても問題ないだろう、とな」
心底嫌そうな顔をして、龍炎はため息をついた。
――気の毒と言えば気の毒なんだろうけど。
一瞬、翠楽に同情しそうになる。
幼い頃からの刷り込みだったりとか、皇太子妃という立場にこだわっているから、とかいろいろ理由はあるのだろうけれど、翠楽は翠楽なりに龍炎に思いを寄せているのは見ていればわかる。
田氏の繁栄が、これから翠楽の産むであろう世継ぎにかかっていることもまた事実ではあるけれど。
翠楽の産んだ子が次の世代で皇太子となれば、田氏のますますの繁栄と発展は約束されたものになるだろう。
「……兄上の妃なのだから、相手をしてやればよいのだ。戦地に一人取り残されたら不安にもなるだろう」
「気楽に言ってくれる」
龍炎は、苦虫をかみつぶしたような表情だ。
――皇太子は翠楽のことをこんなにも嫌っているのかしら。
少なくとも幼なじみで昔からの顔なじみ。不幸な香りが漂っているとはいえ、翠楽はかなりの美女だ。薄幸そうな美女に心惹かれる男性も多いと言うが、龍炎はそちらの趣味はないんだろうか。
蘭珠には黙っているようにと合図しておいて、景炎は顔を上げた。
「兄上。戦の後始末をしたら、兄上は先に帰っていただけないか。俺は、この通り怪我の具合がよくない。途中にある温泉地で養生してから帰ろうと思う」
「―――景炎様」
合図のことも忘れて蘭珠が口を挟もうとすると、景炎は手で蘭珠を制した。
「父上への報告もお願いしたい――何しろ、父上の前に立つのもつらい状況だ」
「……わかった」
――そんなことをしたら、景炎様の手柄まで皇太子の手柄にされてしまうのに!
蘭珠は歯がゆかったけれど、景炎の決めたことだから、何も言うことができない。
「それと、皇太子妃については、蘭珠のために天幕を用意させているから、そちらにおいで頂こう」
翠楽が口を滑らせたからこそ事前に察知できたけれど、翠楽と一緒の天幕というのは正直ごめんこうむりたい。
けれど、蘭珠の意志とは裏腹に、景炎は翠楽を蘭珠と一緒の天幕にするとあっという間に定めてしまった。
手柄を自分のものにできることに満足した様子で、皇太子は立ち去っていく。
「――私に、何をしろとおっしゃるのですか」
ここまで来たら、蘭珠としてもこれ以上は逆らえない。不満が滲んでいたけれど、そのまま景炎の話を聞く。
「――皇太子妃を見張っていて欲しい」
「……と、言いますと?」
「昔から言うだろ、死人に口なしって。皇太子妃が関わっていたのだとすれば、命を落としても不自然ではない。俺達が一緒にいる間に何かあっては困る」
「……そういうこと……ああ、そうかもしれませんね……わかりました」
正直、翠楽の側には寄りたくないがしかたない。景炎のためにも、翠楽を暗殺させるわけにはいかないのだ。
こうして、蘭珠の天幕に翠楽は移動してきたけれど、天幕には異様な空気が漂っていて、蘭珠も鈴麗も、都に戻る準備ができたと聞いた時には、心からほっとしたのだった。




