今までで一番近い距離
「はっ……んぅ……」
強引に掴まれている顎が痛い。苦しくて、息をついた。
「翠楽、お前も無粋なやつだな。いつまでもそこにいるつもりか? 下がれ」
「――殿下!」
「うるさい。俺がこの娘に情けをくれてやるところを見ていたいのか?」
なにやら翠楽が叫んだかと思ったら、ばたばたと走り去る足音がする。
――景炎……!
心の中で景炎の名を叫んだ。彼が、こんなところに来られるはずはないのに。
「やっ……! いやっ……!」
じたばたするものの、薬を盛られた身体で男を押しのけることなんてできるはずもない。
――もっと、よく考えればよかった……!
回らない頭の端で蘭珠はそう考えた。
まさか、龍炎が、自分にそういった意味で興味を持っているなんてまるで考えていなかった。じたばたする蘭珠をやすやすと押さえつけておいて、龍炎は笑ったようだった。
「――景炎のところではなく、俺のところに来い。しばらくの間は寵愛してやろう」
「や……いやっ――!」
そんなことのためにここまで来たわけじゃなかった。
まんまと龍炎の手の内に飛び込んでしまった自分が悔しくて、目尻から涙が流れ落ちる。胸高に結んだ帯が解かれて、そのまま下に引き下げられた。
足を蹴り上げようとするものの、どこまで動かすことができたのか蘭珠自身にもわからない。
衣の会わせ目を解かれようとしたその時、不意に身体に乗っていた重さが吹き飛んだ。
「――兄上! これはいったいどういうことか!」
――景炎……さ、ま……?
聞こえてきたのはたしかに景炎の声。でも、そんなはずはない。だって、彼がこんなところにいるはずなんて――。
争う物音がする方に視線をやると、ちょうど龍炎が壁に叩きつけられ、そのままずるずると崩れ落ちていくところだった。物音に駆けつけて来た侍女達の悲鳴が上がる。
「兄上、俺の妃に手を出されては困る――行くぞ」
はい、と返事をしたつもりだけれど、声を出すことができない。横抱きに抱え上げられたのだけは、なんとなく意識していた。
◇ ◇ ◇
意識を取り戻した時には、室内は暗くなっていた。目を開いたとたん、頭が割れそうに痛んで蘭珠は頭を抱える。
「頭……イタイ……!」
「兄上の勧めたものを飲むからだ」
傍らに置いた椅子に腰掛けていた景炎が声をかけてくる。飛び上がった蘭珠は、彼の方へ振り返った。
「飲んでません!」
まさか翠楽との茶会であんなことになるとは思ってもいなかった。あの時、不意に身体が痺れてきたのを思い出して、身体が震えてくる。
「――どうした?」
「いえ、なんでも……ない……です……ええと、助けに来てくださって、ありがとうございました」
床に起き上がり、その場で姿勢を正して一礼する。そんな蘭珠の様子に、景炎は深くため息をついた。
「まさか、兄上が俺の婚約者に手を出すとは思っていなかった――礼ならお前の侍女に言え。以前教えた通路を使って、俺のところまで来た。教えていなかった場所まで見つけ出したのには驚いたぞ」
「……そうですか、鈴麗が……」
景炎の話によれば、蘭珠が中に入ってすぐ、一人の侍女が出て行ったそうだ。
彼女が戻ってきてすぐ、めったに翠楽のもとを訪れることのないという噂の龍炎が、昼間から一人でやってきたのを見た鈴麗は何かあると思ったらしい。
中に踏み込むべきか、景炎を呼びに走るか考えた末、景炎のところまで一気に走ったのだそうだ。おかげで蘭珠は危機一髪のところで救い出されたというわけだ。
「ご迷惑を、おかけしました」
「何もなかったんだから、それでいい。皇太子妃については、俺も何も考えていなかった」
その言葉には首を横に振る。龍炎の女癖があまりよろしくないのは知っていたけれど、まさか翠楽のところであんな目に遭わされるとは想像もしていなかったのだ。
――あんな地味な人が、あんなことをするなんて。
地味、という言い方は失礼かもしれないけれど、翠楽に関してはやはり地味という表現がぴったりはまる。
身体中の血が一気に下がったように感じられて、手を擦り合わせた。肩から上掛けを掛けているのに、それでもまだ寒い。
「どうした」
「さっきから、すごく……寒い、んです……」
「薬の影響だな。熱が出るか体温が下がるか、どちらかだと医師は言っていたが――鈴麗!」
「はいぃっ!」
声高に景炎が鈴麗を呼ぶと、扉のすぐ側に控えていたらしい鈴麗が慌てた様子で走ってきた。
「生姜茶に蜂蜜を入れて持ってこい。大急ぎで、だ。あと、石を温めさせていただろう、それを持ってきて床に入れろ」
「かしこまりましたっ!」
鈴麗に茶を言いつけておいて、景炎は蘭珠を膝の上に横抱きにする。自分も一緒に上掛けにくるまると、彼は蘭珠の手を自分の衣の内側に入れさせた。
「え……あ……え?」
あまりのことに、頭がついてこない。あわあわしていたら、ぎゅーっと引き寄せられる。
「もっと寄った方がいい。手を衣の外に出すな」
「……ええと」
「いいから、黙ってろ」
後頭部を押さえつけられて、胸元に顔全体を押しつけられる。額がちょうど心臓部分に当たる形になって、頭に血が上るのを自覚した。
体温を分け与えられるなんて、蘭珠の許容範囲を超えていて、違う意味で頭がぐらりとしてきた。




