第9部:知らぬ狂気と知られぬ憎悪
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何かが、変わり始めている。
そう感じたのは、ブリスとの再会から3年後のことだ。
まず、ブリスがパブに来る回数が減った。人気が出て忙しくなってきたからだと本人は言うけれど、たまにフラフラと街中を歩いているところを見かけるし、本当のところはどうなのか分からない。
更に数か月後にはライアもあまり顔を出さなくなって、その代わりとでもいうように、訪れるたびに飲む酒の量が明らかに増え始めた。ウイスキーの杯をいくつもいくつも重ねては視線をどこへともなく彷徨わせ、時折僕を睨みつけては、
「ちくしょう……お前のせいだ、お前がいたから、こんな……ちくしょう……っ!」
なんて、心底憎んでいるみたいに呟いたかと思えば、酔いが醒めた後なんかは泣きそうな顔になって、
「最近忙しくなって、むしゃくしゃしてな。昨夜は八つ当たりして怒鳴っちまって、すまなかった」
本当に決まり悪げに、謝るのだ。
それが一度だけならともかく、繰り返し起こるものだから、鈍感な僕でも何かあるのだということに気付いてしまう。
「そう、か……」
「ごめんな、アイン」
表情。笑み。
そこに含む何かを読み取ってしまうのは、紛れもなく僕の悪い癖で。
それは、気に食わない人間を殴り飛ばしたりどやしつけたりした後に、場を紛らわせるように見せる表情そのもので、
「――つまみ、サービスするよ。お前は仕事で疲れてるんだ、仕方ないよ」
だけど、僕は追及せず、親友を迎えるだけだった。
それは訊くことを恐れて、関係の変化を恐れて、何も言わないだけの保身の結果でしかなくて、その意気地の無さには当の僕ですらも笑ってしまう。
そうだ。そうなんだ。
ここでも僕は、立ち止るんだ。
どうしようもないと、言い訳しながら。
「なあ……アイン」
酒のつまみ――安価で仕入れた塊の肉をサイコロ状に切って、香辛料や野菜と一緒に焼いた物だ――をフォークでぶすぶすと突き刺しながら、ライアは言った。
「お前は、あの女を……ブリスを、どうするつもりなんだ?」
「どう、って?」
グラスを拭く手を止めて問い返すと、ライアは僕を睨むように見る。
「お前、ブリスを避けているだろう?」
言った後で、いや、と言い直し、
「違うな……アイツの暗い側面を敢えて見ないように目を逸らしてる、って言えばいいか」
「……っ!」
図星だった。
確かに僕は、ブリスから目を逸らしていた。
娼婦をしていることも、麻薬のことも、僕は何も言わなかった。
本当は、やめてほしかったのかもしれない。
どこかの食堂で料理を作ったり、配膳でせっせと忙しく走り回りながら、それでも楽しげな笑顔を浮かべる光景を望んでいたのかもしれない。
「……まあ、仕方ないことだから、な」
現実は、非情だ。
見たくもないモノばかりを、これでもかとばかりに見せつけてくる。
だから、目を瞑るしかなくなる。
「お前は、ブリスをどう思ってるんだ?」
「どういう意味だ?」
「ライクなのか、ラブなのか」
思わず、グラスを落としそうになった。
「……随分ストレートな問いだな」
「酔ってるからな」
うはは、とライアは笑う。
「ライクだよ」
「嘘はよせ」
「嘘じゃない……たぶん」
正直のところ、僕は愛というモノを知らない。
物心ついた頃には親もなく他所の貴族の家でこき使われていたから、親族の愛なんて受けたこともないし、性欲的な愛も、たまにパブでやる芝居や流れの音楽家が奏でる曲の中にしか知らない。宗教で神様の平等な愛がどうこうなんて夢物語もまた言うには及ばず、だ。
愛なんか無くたってセックスはするし――僕には経験はないけれど――、キスはするし――同じく経験はない――、そこから流れに流れて家庭ができるような連中ばかりいる世界だから、愛がそこまで重要なのかすらも分からない。
「だいたい、俺が彼女を愛したとして、どうなるということもないだろう」
金がない僕は彼女を身請けできないし、たとえ強引に連れ出したとしてもすぐに追手が来て、翌朝には野良犬の餌になるだろうことは想像に難くない。
さして性欲に振り回されることもないから彼女を抱こうとも思わないし、胸を焼き焦がされるような渇望もない、そもそも今の関係で構わないと思っているから、どうもしようがない。
「……やっぱ、お前はそう答えるよな」
「何だ、知った上で訊いてきたのか」
グラスを拭く作業を再開する。
キュッキュッとガラスを布が擦る音、グラスをテーブルに置く音が、店の中で酔っ払いの騒ぎ声の中で際立って聞こえた。
「ほら、飲めよ」
カウンターに並べてある空のグラスの一つにウイスキーを注いで、ライアは僕に突き出してくる。
「いや、俺は酒は」
「いいから飲め」
「…………」
断り切れず、僕は受け取ったグラスを一瞬の躊躇の後に一気に飲み干す。
ウイスキー特有の強い風味が鼻や舌を通して脳を犯し、酒を飲み慣れない僕は噎せて吐き出しそうになる。
衝動を堪えて無理やり飲みこむと強い酒精が喉を通り、胃に落ちるとまるで火を呑んだように全身が熱くなって、ふらつく体をテーブルに縋って留めた。
「……きついな」
「だろう?」
次いで差し出された冷水で口を漱いでいると、もう何杯目かも分からないウイスキーを呷りながらライアは言った。
「思った通り、とっくの昔に狂っていたんだな、お前は」
「……それは、挑発ととっていいのか?」
違うさ、とライアは笑って答える。
「事実、お前は狂ってる。愛も知らず、衝動も覚えず、だから何も気づくこともなく、むしろそれら全てから目を逸らして、平気で、さもそれらを知っているかのような顔で笑っていられる」
正気じゃないさ、と言って。
だから、と。
だからこそ、と。
「もうすぐ全部失くして――結果的に無かったことにするんだろうな、お前は」
ライアは、笑っていた。
それは、それまでの微笑みの類じゃなかった。
嘲笑だ。
嘲るような、それでいて憐れんでもいるような、そんな笑み。
「っ……お前は、」
何を、言ってるんだ。
そう問おうとして、だけど向けるべき相手が力尽きたようにテーブルに突っ伏してグーグーといびきをかいていたから、それ以上問うこともできなかった。
眠るライアの顔色はひどく悪かったし、明るい茶色の髪は長く風呂に入っていないのか、まとわりついた皮膚の油が萎れたような質感を出し、光を反射してテカテカと光っている。
そして、目の下にできていた隈は、灯りの下だとことさらに目立った。
「……俺には分からねえよ」
どうすればいいかなんて、分からない。
誰も、教えてくれなかったんだ。
誰も、こうあれと強いちゃくれなかったんだ。
こうまで疲れ切っている悪友は、何を望んでいる?
僕に、どうあってほしいんだ?
叫ぶアテもなく、内心で小さく呟いて、僕は酔い潰れた親友の背中に毛布をかけてやった。