第10部:日和見主義の求めたモノ
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僕は、何も言わなかった。
顔に痣をつくりながら、厄介な客が来て大変だったよぉと言っても、お疲れ様と料理をサービスするだけ、手頃な慰めをかけるだけだったし、何の前触れもなく唐突に泣き出した時だって、何も言わずに背中を撫でる程度だった。
僕は、何もしなかった。
定期的に口にする白い粉薬は見なかったフリを決め込んでいたし、徐々に肌がくすみ、痩せて、足取りに酔いによるものではないふらつきが目立ってきても、僕は何も言わなかった。
彼女の人気が地に落ち、見向きもされなくなっていく様子も、黙って見ていた。
僕は、彼女を救う術を持たなかったから。
お伽噺じゃない、僕は救えないと知っていたから。
咲いた花が散り、見るも無残に枯れていくのを眺めるように、何もすることはなかった。
どうしようもなかったんだ、と叫ぶのは簡単だ。
だけど、言い訳する相手も知らなかったし、どうすべきかも知らなかったから、ただ僕の中で燻っていた。
あの時の僕は、何をすべきだったのだろう。
これからの僕は、何をすればいいんだろう。
答えてくれる人はいない。
誰にも打ち明けられない。
打ち明けるべき相手を知らない。
だから、最後の……本当に最後まで、何もできなくて。
「おい、アインッ!」
息を切らしてパブに駈け込んで来たライアによって、僕はその誤りを知ることになった。
「ブリスが倒れた?」
パブをオヤジに任せて――オヤジは嫌そうに顔を顰めたが、何かを察したのか、聞き入れてくれた――娼館街へと向かう道で聞いたことに、僕は驚きを隠せなかった。
「しかも、症状が薬物症状の末期……あいつはもう、終わりだよ」
「……っ!」
予想できなかったわけじゃない。
他の病気と違って、麻薬中毒は治療法なんて無いから、無理やり吐き出させて薬を抜かせるくらいしかやりようがない。
重なる疲労と持続的な麻薬の服用、僕が知る限りでも3年以上もったというのが一種の奇跡みたいなモノだ。
「……どうして、お前は冷静でいられる?」
娼婦街ではありふれたこととはいえ、僕の中では非日常としての意味合いが強くて、それも、ブリスがその末路を辿るという事が、何よりも衝撃的だった。
だけど、横を走る親友はぞっとするくらい冷たい目で僕を見て、
「いつものことさ」
口にしたそこに、感情はこもっていなかった。
「いつものことさ。クスリに手を出して、がむしゃらに稼ぎ続けた女が長くは生きられないのは、当然のことだ」
感情を欠片も滲ませず、淡々と、ライアは言う。
「いつものことさ。ただ、これから死ぬ女は、親友が恋い焦がれた女だってだけ。ただ、それだけだ」
「…………」
僕は、ライアの言葉を否定しなかった。
分かっていたからだ。
ライアがやろうとしていることが、分かっていたから。
「いつものことさ……本当に、さっさと通り過ぎていく日常の一部、いつものことでしかない」
いつものこと、いつものこと。
繰り返し、繰り返し紡がれる言葉。
それはまるで、自分に刻み付ける碑文のようで、
「いつものように、また、変わるんだな……」
僕も呟いて、空を見上げる。
どんよりと曇り、日暮れへ向けて暗くなっていく空。
彼女との再会から、4年目の冬の入り。
そうだ。
寒いこの日を、知っている。
この日の意味を、知っている。
今日は――クリスマス・イブだ。
「――ブリスッ!」
娼館街、一番大きい店の中。
先行するライアのおかげか、誰の制止も受けることなく階段を駆け上がった3階の部屋に、彼女は横たわっていた。
初めて入るその部屋は、殺風景なモノだった。
家具の類は少なく、薄汚れたベッドと、その脇に水差しとコップ、白い粉の入った紙包みが載ったミニテーブルと小さな椅子が一脚、あとは小さくて、所々にカビが生えているチェストがあるくらい。
寂しい部屋、というのが最初に抱いた印象で、
「あ……、ア、イン……?」
ベッドの上で、荒く息を吐きながらブリスは閉じかけた目をこちらに向けていた。
まず目についたのが顔で、ここ数日姿を見なかったせいか、肌は白いを通り越して青く見えて、額を、頬を汗が絶え間なく流れている。更によく見ると、血管の浮いた首筋や小さな肩、纏っている薄い布地の服も汗でぐっしょりと濡れているのが分かった。
「おか、しいな……どうして、アインがここに、いるの……?」
「もういい、喋るな」
「だって、アインは、いつものパブで、がんばってるはずでしょ……?」
ライアの制止を無視して、彼女の唇は動く。
「あれかな、いつもの幻、かな……? 死んじゃう私に、最期の、最後のご褒美を、見せよう、って……?」
あはは、と彼女は乾いた笑い声を上げた。
「もう、いいのに……私は、バチが当たったって、ただ、それだけなのに……っ」
「何を言ってるのか知らないが、もうよせ。休んでいろ」
「私が、悪かったの……やったことが全部、嫌な方向に進んで……気づいたらもう、止められなくなってたから」
「だから、お前は何を言って、」
言いかけて、僕は気づく。
「見えて、ない……?」
彼女は、僕を見ていなかった。
確かに、彼女はこちらに顔を向けている。
だけど、目の焦点は合うことなくどこか遠くを見ているようで、それは僕やライアを知覚すらしていないことを意味する。
「目が……見えていないのか?」
「おそらくは、な。様子からして、耳もイカレてるんだろう」
僕の問いにライアは短く答え、扉へと歩き始める。
「オレは、外にいる。何かあったら呼べ」
「……あぁ」
短い会話、後にギギ、とドアが軋む音がして、バタンと閉じられる。
「ごめん、ね……私、不器用だから。不器用で、バカだから、何をしたらいいのか、分からなかったんだ……」
「…………」
「ごめんね、アイン……何度も嘘ついて、何度も騙しちゃって、ごめんね……」
「……え?」
僕の名前を、呼んだ?
「ブリスッ、今、俺の」
ことが、見えているのか?
そう訊こうとして、
「――幻だって、分かって、るんだ」
「っ……」
「いつもみたいに、笑ってるから。私を哀しませないようにするために。本当のアインなら、すぐにでも泣きそうな顔、してるだろうしね」
「…………」
そうか、と僕は悟ってうな垂れる。
彼女が話す相手は、僕の幻覚か。
「ブリス……」
僕は、彼女のベッドの傍にある椅子に腰かける。
ここなら、彼女の傍にいられる。
彼女は、ここにいる僕の姿も、声も、感じられない。
けれど、僕は何かをしたかった。
何を、という具体的なモノは何一つなかったけれど。
僕にできることは無いと、自分でも分かっていたけれど。
混濁した意識の中、うわ言のように、彼女は一人で喋り続けていたけれど。
僕は。
ずっと、彼女の傍にいたかった。
ただ、傍にいたかっただけなんだ。




