第18部:望んで、臨んだ最後の日
ずっと、夢を見てきたようだった。
限りなく現実と乖離したような感覚はいくら拭っても消えなくて、それは腕を、背を、首筋を、額を流れ落ちる汗と等しい。その夢はどこまで行っても悪夢でしかなくて、不幸の二文字でしか埋められなくて、それ以外に埋めようがなくて、僕自身、そこから懸命に目を逸らそうとし、現にこれまではそうしてきたし、これからもそうするつもりだった。
つもり、だった。
つもり、だった。
その〝つもり〟が、単なる思い込みでしかないことを知っていたから、なおのこと、僕はなるべく本当のことから目どころか体ごと反転させていた。
だけど。
夢の本質は、結局は現実に行き着く。
僅かに視点を変えていただけの現実は、容易く僕を飲みこむ。
思えば、ずっと間違って生きてきたのだろう。
そして、それは僕だけじゃなく、彼女――ブリスも同じだったように思う。
生まれた時点で親に数枚の金貨と同等の扱いをされ、屋敷に売り飛ばされた事自体ロクでもないし、逃げ出した後も苦痛の多い娼婦をやって、麻薬にも手を出した。これは彼女からすれば、僕と一緒に暮らすという夢を叶えるために考えた結果が娼婦で、挫折して逃げた先が麻薬だったのだろう。
かつては傍にいて、互いに寄り添い合い、傷を舐めあう相手であった僕もまた、彼女から目を逸らしてしまった。
いくつもの不幸を押し固めたような現在で、寿命と引き換えに情事と麻薬の肉体的な快楽を求めるだけの日々を送る彼女の心境を、僕は知らなかった。
最後に訪れたのは、後悔だ。
彼女に何も伝えず、変えられたかもしれない可能性を静観という形で握り潰し、切羽詰った時にやっと、事の重大性、互いの真意に気付けた。
そうだ。
気づくことが、できたのだ。
だから、
「――ブリス!」
ドアを蹴破るように開け、叫ぶのは、それを示すための、陰鬱のまま閉じようとする物語への反旗とも言えるだろう。
パブを飛び出し、いくつかの店に寄った後に駆け込んだ娼館は、稼ぎ時の夜を迎えて賑わい――と言っても話し声や客寄せの類じゃなくて、そこかしこの部屋から聞こえる淫猥な喘ぎ声なのだけど――を見せている。
いくつかの紙袋抱えて飛び込むように娼館に入った僕は、最初こそカウンターに座る受付と思しき中年の男に睨まれたものの、ライアの言った通り僕を〝この店を仕切る人間の知り合い〟と認識したのか、止められることなく階段を上り、数時間前の記憶を辿ってブリスの部屋に着くことができた。
「はぁっ、はぁっ……来たぞ、僕は」
ぜぇはぁ、ぜぇはぁと吸っては吐き吸っては吐き、乱れた息を整える。
苦しい。熱い。
飲んだ酒は一杯だけでも、全力疾走してしまったせいでクラクラする。
ミニテーブルに抱えてきた紙袋を置いて、彼女を見る。
「もう……どうして来ちゃうかな、アイン」
細い、声。
途切れ途切れの、弱々しい声。
聞こえないフリをするでもなく、僕を向いて彼女は言う。
「演技は、しなくてもいいのか?」
「ここに、来た……ってことは、もう、君には、バレて……るって、こと、だからね。それに、ほら……もう、嘘を吐く……余裕も、ない、し」
彼女は、言う。
言って、笑う。
声からは嘘は欠片も感じられなくて、ただ、皆無に等しい力を振り絞って話しているということだけは分かった。
「あの人……ライアが、言ったん、でしょ?」
「そうだ」
「……まったく、お節介、だなぁ」
それでも、と。
それでも、彼は、と。
「知って、る? 私ね……ライアに、いっぱい、助けてもらった、んだ。そうでなかったら、私、とっくにどこかで、死んじゃってると、思う」
「へぇ……」
それは、ある程度予想はできたことだった。
ほとんど動けない、働き手になれない彼女が未だにこの娼館にいられることの理由にもなるし、やけに僕にブリスのことを持ち出したことからも、推測することができる。
「彼、ね……私のこと、ずっと好きでいてくれた、んだ。こんな、ぼろぼろになっちゃった、私を、さ」
「……そっか」
「どうして、だろうね。動けもしないし、目も、ほとんど見えないし、耳だって、近くの音を、聞くのがせいいっぱい……それに、ね」
「それに?」
「私ね……好きな人がいるの。それを知ってて、私に想いを寄せてくれてた」
やや気まずそうに言って、彼女は顔を逸らし、窓の外を見る。
空は真っ黒で、眼下、娼館街の道沿いに吊るされたランプや、建物から漏れる灯りが淡く照らしている。
彼女の視線を追うようにそれらを眺めた後、僕はブリスへと視線を戻す。
青白く見える肌に覆われるのは骨格が容易に分かるくらい肉の削げた体、その上に艶を失った長い黒髪が無造作に垂れている。神様じゃないから人の寿命なんて知らないけれど、麻の糸よりもか細い命がもうすぐ切れかけているのが僕にも分かった。
(……そろそろ、始めるか)
すぅ――はぁ。
彼女に悟られないように気をつけながら、深く息を吸って、吐く。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
落ち着け、落ち着け。
これからすることは至極単純、誰だってあり得る、日常の一つだ。
緊張することはない、気を張るな、落ち着け、落ち着け。
やらないといけない、僕じゃないといけないことだ、逃げるな。
「……なぁ、ブリス」
「なに?」
彼女が、こちらに顔を向け直し、見つめてくる。
互いに目を合わせた結果、視線が絡み合い、
「っ……」
たったそれだけのことに、早くも僕は何も言えなくなってしてしまう。
(……いや、違う違う)
何を怯んでるんだ。
さっきまで面と向かって話していたじゃないか、焦るんじゃない。
「どうした、の? アイン?」
訝しげな表情。
純粋に、僕の表情が何を示すのか、分からないという表情。
「えっと……ブリス」
「だから、何?」
焦る。
足が震える。手が震える。体が震える。
何も怖がる必要なんてないはずなのに、体が勝手に怯えている。
す、ぅ――は、ぁっ……。
つっかえつっかえの呼吸の後、
「ブリス、」
それは、単純なこと。
ただ、準備して来た言葉を言うだけ。
「クリスマス――二人で、お祝いしよう」
ふらつきそうな足を踏みしめながら口にしたそれに、
「うん」
彼女は、短い言葉と首肯で以て応えた。




