第16部:カラカラ空回りの成れの果て
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音が、した。
光が、散っていた。
「おか、しいなぁ……」
街の隅にある娼婦街、ひっそりと、しかし確かな存在感で以て構える娼館。
その3階の一室、錆びたパイプベッドの上に、一人の女が横たわっていた。
「どうして、だろうなぁ……」
そこに、彼女以外に人の姿はない。
先刻、二人の来客があったものの、家具も少ない殺風景な部屋にいるのは、今は彼女だけだった。
(本当に、どうして、こうなっちゃったんだろう)
彼女は、かつては娼婦を生業としていた。
経歴は頑として明かさず、名無しであった彼女は店のオーナーに祝福の意を持つ名前を与えられ、幾度となく大金と引き換えに男に抱かれ、性的な奉仕を続けていた。
絶世とは言えずとも整った容姿に、媚びず、しかし決して不快感を与えない物腰。
加えて、絶やさず浮かべる屈託のない笑顔に何人もの男が惹かれ、夜の一時の情事に溺れた。
天使、と呼ばれたことがあった。
神の使い、運命の人、と揶揄されることもあり、それを彼女は笑って受け入れていた。
一部の男が何を勘違いしたか、君を連れ出そう、駆け落ちだと持ち掛けられたこともあったが、彼女はやんわりと拒み、強引に決行を図った者はそう時間も経たないうちに〝その手〟の追手に嗅ぎつけられ、翌朝には裏路地のカラスや鼠の餌に成り下がる、なんていうこともあった。
彼女は、娼婦の中でも指折りの人気を誇っていた。
彼女は、常に笑いながら、状況を甘んじて受け入れていた。
彼女は、自分がひょんなことで容易く散る花に過ぎないことを知っていた。
煙草や汗が染みついた男の体に抱かれる。
同僚に勧められた〝楽になれる粉〟を詰めたパイプを吸う。
暗闇の中で起き、日が昇り始めた頃に眠る日々。
性病、麻薬の副作用、肉体の酷使に蝕まれる中で、それでも笑顔を絶やすことをしない。
たとえ楽しくなくとも、真逆の、一気に泣き出し、全てを吐き出したい衝動にかられても、彼女はそれをせずに笑っていた。
笑う。
笑う。
笑う。
笑顔は、自分への励ましだった。
まだ、笑おう。
笑えば、少しだけ明るくなれるから、と。
そして、同時に。
違う、と。
今の自分は、〝本当〟とは違うんだって。
虚しさを否定するための逃避でもあって。
結局、それは――かつて共に地獄を過ごした、かけがえのない人との再会を経た後も、変わらなかった。
(あの時から、かな。間違っちゃったのは……)
理不尽な暴力と報われぬ労働の中で唯一の支えだった、一人の青年。
今は、表通りからずっと離れた小さなパブの小間使いをしている青年。
彼に対して口を突いて出たのは、嘘だった。
嘘、嘘、一歩裏路地へ踏み込めばよく目にする鮮血のように、真っ赤な嘘。
そのくせ、晴れた空に浮かぶ雲みたいに真っ白に見せた嘘。
彼には、私の味わった地獄を、見せたくなかったから。
昔みたいに、ほんの少しの間だけでも一緒に笑っていたかったから。
たとえ、互いの差を再認識し、自分が薬物に溺れてしまってからも、それは変わらない。
(幸せだった、なぁ……)
ちょっとした〝きっかけ〟で繋がりを得たライアと名乗る男を交え、酒を飲みながら語らう日々は、楽しかった。
自分がいる世界を、自分がどれだけ身を汚してきたかを忘れることができて、感じる幸せに身を委ねてしまいたくなるような温かさがあった。
そうだ。
温かかったのだ。
心地よかったのだ。
湯を張った浴槽に身を沈めているような包み込まれる感覚に、全てを委ねてしまいたかった。
今が続けば、なんていう願いは叶わないだろう。
当然だ、自分の体がいつ崩れるかも分からない綱渡り状態あのは、よく分かっている。
分かっている。分かっている。
それだけは、確かに自覚している。
だけど。
もう少し、もう少しだけ、自分の体が耐えてくれたら。
かつて交わした〝約束〟。
たった一つだけのそれを終えるまで、耐えてくれたら。
そう、思っていたはずなのに。
その変化は、突然訪れた。
感覚が、おかしくなった。
日常茶飯事だった眩暈や耳鳴りは、幻覚――在り得ない変な光や音が意識の外で散るようになって、代わりとでもいうように視界が、聴覚が、徐々に遠のいていくように鈍っていった。
体が日に日に重くなって、吐き気も頻繁に訪れるようになった。
食欲が失せ、歩くことも苦痛になって、彼のいるパブに行くことすら少なくなった。
それが、どんどん、どんどん酷くなっていった。
周りには口止めをしていたから、あの尊い、大事な彼には知られることなく、少し心配する素振りを見せていただけだったが、事情を知っていたライアは、事あるごとに部屋を訪れ、何かを構ってくれていた。
『オマエは、それでいいのか?』
とある冬の日、差し入れの果物を剥きながら、ライアは言った。
『医者に診せてはいるが、体が限界なのはオマエも分かってるはずだ。全部アインに伝えればいいんじゃないのか?』
『……それは、できないよ』
剥かれ、切り分けられたフルーツ――歪んだ視界ではそれが何かは分からなくて、何かの塊程度にしか分からない――を手に取り、小さく口を開けて歯を立てる。
『うん、おいしい』
嘘だった。
実際、泥の塊を齧ったみたいに食感も味もめちゃくちゃで、吐き出したいのをこらえて無理やり飲みこみ、
『アインは、脆いから』
無理やり、笑ってみせる。
『簡単に壊れちゃうから、本当のコトは、最後まで言わないでおきたいの。それに……私自身、そうしたいから』
『……理由、訊いてもいいのか?』
尋ねると、大したモノじゃないよ、と前置きしてから、
『あの人に、覚えていてほしいから』
『……?』
『私がそう長くないことは、確定事項、予定調和なのは分かってる。だから……ううん、だからこそ、アインには、〝本当に強い形〟で、私の事を記憶に留めてほしいんだ』
『急死……あいつが何もできないままの状態で死ぬ、という状況を作ることがそれだと?』
『他にも、やることはあるけどね』
そう言って浮かべたのは、作り笑いではなく、純粋な笑み。
まるで子供が、自分が思いついた悪戯を話しているような、自然な笑みで、
『私は、たぶん、アインのことが好きなんだと思う』
『っ……!』
動揺。
見えず、聞こえなかったが、すぐ近くにいる〝親切な友達〟がその感情を示したのを、彼女は感じ取った。
『恋、なんていうほど綺麗じゃないし、数えるのも嫌になるくらい男の人と寝た私がするようなモノじゃないんだろうけど、私は、アインが好きなの』
『…………』
『でも、アインが私の事をどう思ってるのかは分からないし、知るのが怖いから、訊きたくない』
だからこそ、と。
『たとえ、私のこの想いが一方的な片想いであったとしても、アインには、どんな形でもいいから覚えていてほしいんだ』
それは、歪んでいるのかもしれない。
傷ついてもいい、最後には壊れてしまってもいい。
ただ、自分の想いを、自分の望む最高の瞬間に伝えたい。
『貴方にも手伝ってほしいんだけど、――引き受けて、くれるかな?』
彼女が最高の笑顔で尋ねると、
『……そうか』
〝親切な友達〟は、そう言って頷いた。
『引き受けるよ』
引き受けるよ。
引き受ける。
繰り返し、繰り返し言って、シーツの上に力なく投げ出された手に軽く触れる。
冷たかった。
氷のように冷たくて、肉が削げ落ちたそれは細くて、少しでも力をこめれば容易く粉々になってしまいそうだった。
『オマエの……ブリスの願いを、叶えるよ』
その声は、彼女のほとんど使い物にならない聴覚にも、辛うじてだが、感じ取れた。
悲しげに、憎々しげに、それでもいておかしげに。
泣いているのか怒っているのか、はたまた笑っているのかも分からないそれに、
『じゃあ、よろしくね』
彼女はただ、笑ったのだ。




