僕と彼女のよふね3
その日の仕事はよくわからないまま終わった。
店長夫婦が無言で冷やかしてきたのは覚えているが、たくさんの推測と興奮が頭をよぎってそれどころではなかった。
店のシャッターを閉めた手でポケットにある紙にそっと触れる。
彼女は――。
まだ到底まともな考えはまとまらないが、とにかく彼女に会って話すことが一番必要だ。
挨拶をして足早に店を出て重い足と背中を動かしながらバス停の近くの電話ボックスへ入る。
たった2分しか猶予がないこの距離が残念だ。
携帯とポケットの中の名刺を取り出す。番号を押そうとする手がかすかに震えてしまう。
ややあって何コールかした後「望月です」と少し低めの声がまだ震えている左手のあたりから響いた。
「こんばんは昼間はどうも、『春陽』の芦名です。仕事が終わったんで早速電話してしまったんですが。
」震える手に合わせるように安定しない声。
「ええ大丈夫です、と言うより昼間は突然すみませんでした。少し緊張していたもので、つい詰め寄るような態度をとってしまって…。」
「いえ、僕も驚いたと言うか混乱したままろくに話すこともできなくて、すみませんでした。それで、あの件なんですが。」
「そのことですが、お電話頂けたということは昼間に話したことに心当たりがありますよね。
――いえ、そうでないとしても少し気になることがありまして。なんとかお会いできませんか?」
その言葉に内心ドギマギしながらも自分を落ち着ける。
「あのそうですね、はっきりとは言えないところもあるんですが……勘違いでしたらすみませんが、僕も望月さんと同じです。なので僕の方も望月さんと一度詳しくお話できたら、と思いまして。」
できるだけ柔らかい声色を使い、カラカラに乾いた口と手の汗が伝わらないようにバレないように答える。
「よかった! どこかで仕事終わりに予定のない日はありますか? お忙しいようでしたら私の方で調整できますよ。でき れば早めにお会いしたいのですが――。」
早口で興奮したように話す彼女の声に思わず手の中の携帯を耳から遠ざける。
望月さんと会う日はちょうど一週間後になった。
「店の仕事が終わってからなので、20時頃でどうですか?」
「構わないですよ、春陽からだと…向坂中学校が近いですよね。学校の前の交差点にあるファミレスで待ち 合わせましょうか。話も長くなりそうですし。」
と電話越しに微かに笑いを含ませた口調に僕の顔も緩まる。
とはいえ、もし彼女と僕の思う事が全く違ったらと思えばつい自分にセーブがかかってしまう。情けないな。
会話の空気を変えようと僕は少しトーンを落として話を続けた。
「店の都合で上がり時間が変わるかもしれないので、遅れそうだったら連絡入れますね。」
まあ、万年マイペース営業のあの店にそんなことはめったにないのだが。
「大丈夫ですよ、私実のところ失業中なんです。お恥ずかしいことに。」
だから時間はたっぷりあるんです、と苦笑する声に僕は昼間の彼女の印象とは大きく変わっていることに気づいた。
「では、また来週に。」
どちらともなく電話を切った後、僕は背を伸ばして少し足音をたてながらバス停へ向かい歩く。
――彼女もそうだったら……僕にとって変化を起こす起爆剤になるかもしれない。
何よりそうであって欲しいと願う自分がなんだか笑えた。
もう一つ残る可能性のことなんてまるで考えないようにしているかのように忘れ去っていた。
「おはようございます。…あれヨージさん今日は早起きですね。」
「うるさい、『今日も』だ。目が覚めた時が開店時間なんだよ。」
「そういえば、この前春美さんにヨージさんをクビにしようかって言ったら即答で賛成してましたよ。…そろそろ危ない んじゃないですか?」
少し僕を見上げた体勢でジトッと僕の眉間のあたりを見つめた。
「……本当、お前言うようになったな…。店に来た頃頭に付けてたネコはどこに置いてきやがったんだっての。」
そのセリフに少しバツが悪くなって怯むとヨージさんは鼻で笑い飛ばしながらサンドイッチ用のパンの作業に戻った。
この店で働き始めた頃、名実共にというか心身ともにというのかまだ子どもでしかなかった。
人との距離感を何パターンも用意して使い分けるやり方はここでは全く通用しなかったことは未だに悔しい思い出になっている。
でも取り出してみればどこか甘酸っぱく、おもはゆいものだ。
あの当時は必死だったから、とにかく自分を守ることに必死だった。
繰り返す毎日が押しつけられた罪悪感にまみれて、文字どおり亡者にとり憑かれたような体たらく。
今ではそれがフラッシュバックを起こしたり新しく遭遇する度に僕は少しでも早くぶっきらぼうなおっさんと、強くおおらかな「おかあさん」に会えるように今いる場所を見つめる。
亡者に憑かれていても生きているものに引きつけられるものだ。
それから僕はいつだって最善を願うくらいには前向きになっていた。
人は日々、むしろ数秒で変わっていくものなのかもしれない。
「あら、おはよう芦名くん。今日は大嵐になりそうだけど、傘は持ってきてる? 」
そのおどけた表情にヨージさんは苦々しい顔をして、黙々とパンの耳をとっている。
僕と春美さんは目線で笑ってからそれぞれの仕事に向かった。
未熟な話を読んでくださりありがとうございました。
ポイント評価だけでもお待ちしております。




