第64話 母が愛した庭
放課後の東棟は、いつもより静かだった。
窓から差し込む午後の陽射しが、磨き上げられた廊下を柔らかく照らしている。
「……なんだか、少し緊張するね」
ヴィオレッタが呟くと、隣を歩いていたセレスティアが顔を覗き込んできた。
「ヴィオレッタが? 珍しいね」
「だって、聞きたいことがいっぱいあるんだもん。ちゃんと聞けるかなって」
「大丈夫でしょ。アリアが質問をまとめてくれたんだし」
「はい。ですが、あくまで確認したいことを整理しただけです」
アリアは胸に抱えたノートを見下ろした。
「お話の流れによっては、順番を変えた方がよいかもしれません」
「……さすがアリア」
ヴィオレッタが感心すると、アリアは少し照れたように微笑んだ。
その隣では、リリが小さく息を吐いていた。
「……エレノア様、きちんとお話ししてくださるでしょうか」
「どうだろうね」
ヴィオレッタは正直に答えた。
「でも、最初から疑ってかかるのも違うと思うんだ」
「……はい」
「聞けることを聞いて、それから考えよう」
リリは小さく頷いた。
先頭を歩いていたカトレアが振り返る。
「いい考えだね。相手の話を聞くことと、全部を信じることは別だから」
「……カトレア、なんか先生みたい」
「おや、それは褒め言葉かな?」
「もちろん」
ヴィオレッタが笑うと、カトレアも楽しそうに目を細めた。
やがて、応接室の前に到着した。
扉のそばには、マーガレット・ウェルズ先生が立っていた。
「皆さん、揃いましたね」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今日は私も同席します。気になることがあれば、遠慮なく確認してください」
マーガレットはそう言って、扉を開いた。
室内には、すでに一人の少女が座っていた。
淡い金髪を肩に流した、エレノア・ヴァレンティス。
彼女はヴィオレッタたちの姿を見ると、静かに立ち上がった。
「……お待ちしていました」
以前、食堂で会った時よりも、少し疲れた顔をしているように見えた。
◇
「まず、改めてお詫びさせてください」
全員が席に着くと、エレノアは深く頭を下げた。
「私が送った招待状のことで、皆さんに不安な思いをさせてしまいました」
ヴィオレッタは、少し迷ってから口を開いた。
「……エレノアさん。謝ってもらいたい気持ちもありますけど、それより聞きたいことがあるんです」
「はい」
「どうして、そこまで星花の庭を残したいんですか?」
エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。
少し意外そうな表情だった。
「……それは、以前お話ししたとおり、あの場所をもう一度使えるようにしたいからです」
「うん。でも……」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「それだけじゃない気がするんです」
エレノアの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「……どうして、そう思われるのですか」
「だって、普通に考えたら、古い温室を残すために知らない下級生へ招待状を送るって、ちょっと変ですよね」
セレスティアが隣で頷いた。
「しかも、一人ずつ。断られても、また別の子に送ってたし」
「……はい」
「そこまでして残したいなら、何か特別な理由があるのかなって」
エレノアは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……母の話を、してもよろしいでしょうか」
「……お母様?」
「はい」
エレノアは少しだけ微笑んだ。
それは、今まで見せていた硬い表情とは違う、柔らかな笑みだった。
「私の母も、フィオラ女学院の卒業生なのです」
ヴィオレッタは目を瞬かせた。
「……そうなんですか」
「ええ。幼い頃、母はよく学院での思い出を話してくれました」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
「その中でも、特に楽しそうに語っていたのが、星花の庭のことだったんです」
◇
エレノアがまだ幼かった頃。
ヴァレンティス家の屋敷には、庭に面した小さな部屋があった。
午後になると、母はそこでお茶を飲みながら、幼い娘に昔話を聞かせてくれた。
『エレノア。あなたもいつか、フィオラ女学院に通うのね』
『はい、お母様!』
『それなら、星花の庭へ行ってみるといいわ』
『星花の庭?』
『ええ。春になると、温室の中に小さな花がたくさん咲くの。白い花も、薄紫の花も……それはそれは綺麗だったのよ』
母は、いつも懐かしそうに微笑んでいた。
『そこで、お友達とお茶を飲んだの。初めて会う子とも、自然にお話しできる場所だったわ』
『……素敵!』
『そうでしょう?』
母は嬉しそうに笑った。
『あの頃は、毎日が楽しくてね。誰とお茶を飲むか、どんなお菓子を持っていくか、そんなことばかり考えていたものよ』
幼いエレノアは、その話が大好きだった。
母が語る星花の庭は、まるで絵本の中の場所のようだった。
花に囲まれた温室。
明るい陽射し。
笑い合う少女たち。
いつか自分も、そこへ行ってみたい。
そう思うのは、自然なことだった。
『お母様。私も、そこでお友達を作れますか?』
そう尋ねた時、母は少しだけ目を細めた。
『……ええ。きっと、素敵なお友達ができるわ』
その答えが、エレノアには何より嬉しかった。
◇
「……ですから、学院に入学した時、私は真っ先に星花の庭を探したんです」
エレノアは静かに語った。
「でも、温室は閉鎖されていました」
「……そうだったんですね」
ヴィオレッタは小さく頷いた。
「最初は、古くなったから使われなくなったのだと思っていました。ですが、調べていくうちに、昔の招待会で問題があったことを知ったんです」
エレノアは視線を落とした。
「母が話してくれた、あんなに綺麗な場所で……誰かが傷ついていたなんて、考えたこともありませんでした」
リリが静かに口を開いた。
「……お母様は、そのことをご存じだったのでしょうか」
「分かりません」
エレノアは首を振った。
「少なくとも、私には一度も話してくれませんでした」
「……そうですか」
「母に尋ねようと思ったこともあります。でも、昔の思い出を楽しそうに語る母の顔を見ると、どうしても聞けなくて……」
エレノアは少し寂しそうに微笑んだ。
「だから、母が何を知っていたのか、私にも分からないんです」
ヴィオレッタは黙って聞いていた。
母の思い出を大切にしたい。
けれど、その思い出の裏側には、傷ついた人がいる。
その二つの気持ちが、エレノアの中でぶつかっていたのだろう。
「……それで、温室を残したかったんですね」
「はい」
エレノアは頷いた。
「母が大好きだった場所を、何も知らないまま失いたくなかったんです」
その声には、今までとは違う強さがあった。
「でも、昔の事件を知ってからは、ただ再開すればいいとは思えなくなりました」
「……うん」
「だから、考えたんです。今の生徒たちなら、あの庭をどう使うのだろう、と」
ヴィオレッタは少し首を傾げた。
「……それで、私たちに招待状を?」
「はい」
エレノアは頷いた。
「皆さんなら、招待をどう受け止めるのか知りたかったんです」
「……でも」
ヴィオレッタは、少しだけ眉を寄せた。
「それなら、普通に話しかけてくれればよかったんじゃないですか?」
エレノアは言葉に詰まった。
「……そう、ですね」
セレスティアが腕を組んだ。
「それに、私たちは招待状を受け取って、正直ちょっと怖かったよ」
「……はい」
「誰が送ったか分からないし、旧温室は立ち入りが制限されてるし。しかも、一人で来てって書いてあったでしょ?」
エレノアは目を伏せた。
「……申し訳ありません」
すると、リリが静かに口を開いた。
「エレノア様」
「……はい」
「私は、招待状を受け取った時、とても不安でした」
エレノアはリリを見た。
「でも、それ以上に、どうして私が選ばれたのか分からなくて……少し怖かったんです」
「……はい」
「昔の招待会でも、選ばれることや選ばれないことが問題になったのですよね」
「……ええ」
「でしたら、誰かを試すような形で招待状を送るのは、同じことを繰り返してしまうのではないでしょうか」
エレノアは、はっとしたように顔を上げた。
リリは少し緊張しながらも、言葉を続けた。
「お母様の思い出を大切にしたいお気持ちは、分かります。でも、そのために別の誰かが不安になるのは……私は、違うと思います」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、エレノアは深く頭を下げた。
「……おっしゃるとおりです」
その声は、かすかに震えていた。
「私は、母の思い出を守りたいと言いながら、今の皆さんの気持ちを考えていませんでした」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「……エレノアさん」
「はい」
「星花の庭を残したいって気持ちまで、間違ってるとは思いません」
エレノアが顔を上げた。
「でも、残すなら、今度こそ誰も嫌な思いをしない場所にしたいですよね」
「……はい」
「だったら、まずはちゃんと話し合うところから始めませんか?」
エレノアは、しばらくヴィオレッタを見つめていた。
そして、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
◇
「では、もう一つ確認させてください」
アリアがノートを開いた。
「招待状に使われていた、青い封蝋についてです」
エレノアの表情が少し変わった。
「……封蝋、ですか」
「はい。昔の公式な招待状は、白い封蝋だったと伺いました」
「……そうですね」
エレノアは頷いた。
「私も、古い資料で確認しました」
「でしたら、なぜ青い封蝋を?」
エレノアは少し迷った後、静かに答えた。
「……母の書類の中に、青い封蝋が描かれた手紙の写しがあったからです」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「……手紙の写し?」
「はい」
エレノアは頷いた。
「母は当時、星花の庭の招待会の運営を補佐していたそうです」
「……運営を?」
「ええ。招待状の準備や、参加者の記録をまとめる仕事をしていたと聞いています」
ヴィオレッタは思わず息を呑んだ。
母も、当時の招待会の代表者だった。
つまり、エレノアの母とイザベラは、同じ運営側にいたことになる。
「……お母様のお名前を伺ってもいいですか?」
エレノアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……クラリッサ・ヴァレンティスです」
ヴィオレッタは、その名前を心の中で繰り返した。
(……クラリッサさん)
母からは、まだ聞いていない名前だ。
「母の書類には、当時の招待会の参加者名簿や、案内状の下書きなどが残されていました」
エレノアは続けた。
「その中に、エリザベート・ローウェル様が書いた手紙の写しもあったんです」
「……どうして、手紙の写しが?」
ヴィオレッタが尋ねると、エレノアは静かに答えた。
「その手紙は、母宛てに送られたものだったからです」
ヴィオレッタは目を見開いた。
「……お母様に?」
「はい。母が受け取った手紙の内容を、後から書き写して保管していたようです」
アリアが小さく頷いた。
「それなら、ヴァレンティス家に写しが残っていても不自然ではありませんね」
「ええ」
エレノアは続けた。
「原本は見つかりませんでした。ただ、写しの末尾に、封筒の裏にあった紋章の簡単な図が描かれていたんです」
「……星と花の?」
「はい。そして、横に『青い封蝋』と書き添えられていました」
ヴィオレッタは考え込んだ。
母が持っている手紙にも、青い封蝋が使われていた。
けれど、エレノアが見たのは、母宛ての手紙ではない。
エリザベートが、別の相手にも青い封蝋の手紙を送っていたことになる。
「……それで、その色を使ったんですね」
「はい」
エレノアは頷いた。
「昔の招待会をそのまま再現するのではなく、過去に傷ついた方のことも忘れないようにしたかったんです」
ヴィオレッタは少しだけ眉を寄せた。
「……でも、その意味を知らない人が受け取っても、分からないですよね」
「……はい」
エレノアは苦笑した。
「今思えば、私の自己満足だったのかもしれません」
その言葉に、ヴィオレッタは何も言わなかった。
青い封蝋に込められた意味。
それ自体は、エレノアなりに考えたものだったのだろう。
けれど、誰かの気持ちを大切にするなら、まずその相手に伝えなければならない。
そうしなければ、どんなに綺麗な思いも、届かないことがある。
◇
「……エレノアさん」
ヴィオレッタは、少し迷ってから口を開いた。
「実は、私の母も昔の手紙を持っているんです」
エレノアの表情が変わった。
「……お母様も?」
「はい。エリザベート・ローウェルさんから届いた手紙です」
エレノアは、しばらく動かなかった。
「……そう、だったのですね」
ヴィオレッタは慎重に続けた。
「その手紙にも、同じ青い封蝋が使われていました」
「……同じ」
「はい。だから、エレノアさんがどうしてその色を選んだのか、気になっていたんです」
エレノアは、ゆっくりと頷いた。
「……そういうことだったのですね」
その声には、少し驚きが混じっていた。
「母の書類にあったものと、同じ封蝋だったなんて……」
ヴィオレッタは彼女を見つめた。
少なくとも、今の反応を見る限り、エレノアはイザベラの手紙について知らなかったように思える。
もちろん、それだけで何かが証明されるわけではない。
けれど、今まで不思議だった青い封蝋の理由には、一つの説明がついた。
「……エレノアさん」
「はい」
「その手紙の写し、先生に確認してもらうことはできますか?」
エレノアは少し考えた。
そして、静かに頷いた。
「……母の大切なものなので、私だけでは決められません。でも、家に相談してみます」
「ありがとうございます」
マーガレットが口を開いた。
「では、その件は学院から正式にお願いしましょう。皆さんが個人的に調べる必要はありません」
「はい」
ヴィオレッタたちは頷いた。
その時、カトレアがふと口を開いた。
「ところで、エレノアさん」
「……はい?」
「星花の庭を再開するとしたら、また一年生だけを招待するつもりだったのかな?」
エレノアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……当時の形式に倣うなら、そうなると思いますが」
「それは困るな」
カトレアは真剣な顔で言った。
「僕は二年生だから、参加できないじゃないか」
室内に、一瞬の沈黙が流れた。
そして、セレスティアが吹き出した。
「……カトレア、そこ!?」
「もちろん、大事なことだよ」
カトレアは涼しい顔で答えた。
「せっかく綺麗な温室があるなら、学年に関係なく楽しめた方がいいだろう?」
「……それは、そうだけど」
ヴィオレッタも思わず笑ってしまった。
「でも、カトレアの言うこと、分かるな」
「おや、ヴィオレッタもそう思う?」
「うん。せっかく新しくするなら、昔と同じ形にこだわらなくてもいいんじゃないかな」
エレノアは、少し驚いたように二人を見つめた。
「……昔と、同じ形でなくても」
「そうですよ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「お母様が大好きだった場所を残すことと、昔の招待会をそのまま再現することは、別だと思います」
エレノアは、ゆっくりと目を見開いた。
そして、何かに気づいたように小さく息を吐いた。
「……そう、ですね」
その表情は、先ほどまでより少し明るくなっていた。
◇
話し合いが終わり、エレノアが応接室を後にした後。
ヴィオレッタたちは、しばらくその場に残っていた。
「……思ってたより、普通の人だったね」
セレスティアがぽつりと呟いた。
「……普通って」
ヴィオレッタは苦笑した。
「だって、もっと何か企んでる人なのかと思ってたんだもん」
「……まあ、気持ちは分かるけど」
リリが静かに微笑んだ。
「お母様のことをお話しされている時、とても優しいお顔をしていらっしゃいましたね」
「うん」
ヴィオレッタは頷いた。
「きっと、本当に大切な思い出なんだろうね」
アリアはノートを閉じながら、静かに口を開いた。
「ただ、一つ気になることがあります」
「……何?」
「エリザベート様が、イザベラ様だけでなく、クラリッサ様にも手紙を送っていたという点です」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「……うん」
「お二人が当時の運営に関わっていたのなら、手紙の内容も事件に関係している可能性があります」
「……そうだね」
カトレアが静かに頷いた。
「それに、エレノアさんのお母様が、どうしてその手紙を大切に残していたのかも気になるね」
ヴィオレッタは考え込んだ。
母は、エリザベートの最後の手紙を今でも大切にしている。
クラリッサも、手紙の写しを残していた。
同じ少女から届いた、二通の手紙。
それぞれには、いったい何が書かれていたのだろう。
(……もしかして)
ヴィオレッタは、ふと思った。
母とクラリッサは、同じ出来事を経験している。
けれど、見えていたものは違ったのかもしれない。
そして、その違いが、今も残っているのだとしたら。
「……先生」
ヴィオレッタはマーガレットを見た。
「もし書類を確認できたら、私たちにも教えていただけますか?」
マーガレットは静かに頷いた。
「もちろん、話せる範囲でお伝えします。ただし、個人の手紙ですから、扱いには十分な配慮が必要です」
「……はい」
ヴィオレッタは頷いた。
その言葉に、少し安心した。
誰かの過去を知りたいからといって、何でも勝手に見ていいわけではない。
それは、今回の事件で忘れてはいけないことだと思った。
◇
その日の夕方。
ヴァレンティス家の屋敷では、一人の女性が窓辺に座っていた。
クラリッサ・ヴァレンティス。
かつて、フィオラ女学院の星花の庭で招待会の運営に携わっていた女性だった。
膝の上には、娘から届いた手紙が置かれている。
『お母様。
星花の庭について、学院の先生方から昔の書類を確認したいと言われています。
お母様の大切なものだと分かっていますが、見せてもよろしいでしょうか』
クラリッサは、しばらくその文字を見つめていた。
やがて、静かに目を閉じる。
「……エレノア」
その声は、かすかに震えていた。
「あなたには、綺麗な思い出だけを話してしまったのね」
窓の外では、夕陽が庭を赤く染めている。
クラリッサは、傍らの小さな箱へ手を伸ばした。
中には、古びた書類と、丁寧に折り畳まれた一枚の紙が収められていた。
その紙には、若い頃の彼女が書き写した文字が残されている。
『クラリッサ様へ。
私は、あなたを責めたいわけではありません。
ただ、どうか忘れないでください。
あの日、私が招待を断ったのは、私自身のためだけではなかったのです』
クラリッサは、ゆっくりと紙を閉じた。
「……忘れてなど、いないわ」
その声は、誰に届くこともなく、静かな部屋に消えていった。
星花の庭で起きた出来事。
その真相を知る者は、まだ残されていた。




