事故物件ファイル15 精神異常者の部屋
「夜中になると、あの人の叫び声が何時間も続いていたんですよ。意味のわからない言葉で…」
そう語るのは、近隣住民の一人だった。
中年女性がひとりで暮らしていたワンルーム。
あまりにも異常な言動が続き、ついには役所の職員が精神科病院に措置入院させ、退去となった。
後日、小林と千堂は、役所の依頼で部屋の様子を確認しに訪れた。
「部屋にあるものはすべて処分して構いません、と言われてます」
玄関で担当者から鍵を受け取り、彼らは中へ入った。
中はひどい有様だった。
壁紙は何ヵ所も爪で引き裂かれ、床には謎の液体の跡が染み付いている。
部屋中に、カビと腐敗した匂いが充満していた。
「これは……部屋がずいぶん荒れてますね」
千堂が顔をしかめる。
その瞬間――
ズキン。
千堂のこめかみに、鋭い痛みが走った。
「……っ」
視界が一瞬、歪む。
床に広がるシミが、ゆっくりと“動いている”ように見えた。
いや、違う。
――見えているのは、別の“記憶”。
暗い部屋。
閉め切られたカーテン。
鳴り続けるインターホン。
『出ちゃだめ……あの人たちが来る……』
頭の中で、女の声が囁く。
千堂は思わず壁に手をついた。
「どうした?」
小林が振り返る。
だが、その声も遠い。
――電話が鳴る。
――誰もいないのに、背後で足音がする。
――笑い声。
――罵声。
『なんで私だけ……なんで……』
千堂の視界に、見知らぬ光景が次々と流れ込んでくる。
仕事で失敗を繰り返し、職場で孤立していく姿。
家族との関係も崩れ、連絡は途絶え。
一人きりの部屋で、誰にも助けを求められないまま、時間だけが過ぎていく。
そして――
『いる……いる……壁の中にいる……』
壁を引っ掻く手。
爪が割れ、血が滲む。
『逆さまに……歩いてる……見てる……』
千堂の呼吸が荒くなる。
「……っ、はぁ……っ」
そして、最後に流れ込んできたのは、
静まり返った部屋で、
ただ一人、膝を抱えて震えている女の姿だった。
『もう……いや……』
ぽつりと、絶望だけが残った声。
千堂の中で、何かが崩れ落ちる。
(……この人……)
喉が震える。
(……酷い人生だったんだ……)
――パキッ。
何かが割れる音とともに、意識が現実へ引き戻された。
「おい、大丈夫か?」
小林の声が、はっきりと耳に届く。
「……すみません、大丈夫です……」
千堂は額の汗を拭いながら、小さく息を吐いた。
小林はふと、壁の一角に目を留めた。
「おい……血のようなもので、何か書いてあるぞ」
「えっ? どこです?」
「……読めないな。文字が逆さになってる」
「逆さ文字じゃないですか? ほら……上下が逆」
二人がしゃがみ込み、懐中電灯を向けて読み上げる。
「……『ナスペース ぐいゃ ウアオガ』?」
「なんだそれ……意味がまるでわからん」
小林はつぶやいた。
「統合失調症が進行すると、現実と幻想の境界が曖昧になるらしい。文章が完全に支離滅裂になって……」
千堂が口を挟む。
「それでも、感情だけは伝わってくるときもありますよね。“怒ってる”とか、“怖がってる”とか……」
その言葉の裏に、先ほど見た“彼女の絶望”が重なっていた。
部屋のあちこちに散らばる紙切れには、こんな言葉も見つかった。
【うしろのむこうでひとがさかさに歩いてる】
【サラダ油をかけると、声が出なくなるの】
【しあわせは右耳にしか入らない】
【わたしは昨日のわたしじゃなかったのに】
そして、もう一度、壁の“血文字”を見つめる。
「ナスペース ぐいゃ ウアオガ」
それは、彼女の中で組み上げられた、もう一つの“世界の言葉”だったのかもしれない。
小林がぽつりとつぶやく。
「……頭がいかれたんだな。だが、宮沢賢治さんや芥川龍之介さん、太宰治さんも、心を病んでいた。紙一重なんだよ、天才と狂気ってやつは」
千堂は無言でうなずき、窓の外を見た。
その日はなぜか、異様に静かな夕暮れだった。
だが、その静けさの奥で。
「……たすけて……」
かすかな声が、まだ千堂の耳に残っていた。
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