第九話 「ただいま」
「.........っ.........ぅ」
大きな瞳から溢れだす涙を必死に手で拭い続けるノヴ。ラデスは嗚咽を漏らす彼の背中を優しく撫でる。
彼のトラウマを払拭できたかは分からない。まだこれからも過去を引きずってしまうかもしれない。
しかし、彼の一言がノヴをほんの少しだけでも救ったのは紛れもない事実だ。
「お前が辛くなったら、みんなを頼れ。お前がまだみんなに話すのがきついんだったら、俺にだけ頼れ。みんなにはうまく言っといてやるから」
「…でも、いつかは話せよ。みんなお前のこと知りたがってんぞ」
少しの笑みを顔に含めながら、ラデスはノヴを見る。
「ぅぅ.......うん....」
「みんなに、はなすよ」
手に隠されて分からなかったノヴの顔が明らかになる。彼の晴れやかで澄み切った表情はラデスの心を安堵へと導いた。
今まで彼が抱え込んできたものを、溜めこんできたものを少しでも解放出来たのかと思うと感慨深くなるというものだ。
「てか、もうこんな時間か。夕飯の準備しないとな」
思っていたよりも時間が経っていたのか、ノヴと言葉を交わすうちにいつのまにか夕日が沈みそうになっていた。
「んじゃ、もうお前も帰れよ」
「…ちょっと、待って」
急いで道場に戻ろうとしたラデスをノヴは引き止める。まだ何か言いたげなのだろうか。心配そうにしている彼の表情がラデスの瞳に入ってくる。
「何だ?」
「…ラデスはいいの?」
「……いいんだよ。俺は」
そう言い道場へ戻るラデスの背中は頼もしさと少しの儚さを孕んでいた。そして彼は振り返らずに道場へと戻った。
ノヴにこの表情を見られたくなかったからだ。道すがら通りがかった人が見たら避けられてしまうほどの憤怒の形相。
彼にこんな思いをさせる世界を、変えなければいけない。この世界は間違っている。
絶対に成し遂げなければ。
ラデスが勇者にならなければいけない理由がまた一つ増えた。
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「本当に大丈夫か?」
「うん、すこしこわいけど…」
ラデスの隣で蛇に睨まれた蛙のようにノヴはおどおどしている。そんな彼の肩を持ち心と体を支えているラデス。
なんと彼は昨日の今日で話すとラデスに言ったのだ。彼の覚悟はラデスが思っていた以上に大きかったようだ。
真昼でもなく、決して早朝ともいえない時間に集められた子供たちとローザはノヴとラデスの神妙な面持ちに尋常とはかけ離れた雰囲気を感じ取っていた。
「少し話がある。大事な話だ。ほら」
ラデスはそう言うと隣に立つノヴの肩をぽんと叩き合図を送る。
ノヴは己の過去を話した。包み隠さず全部話した。彼らはそれを黙って聞いていた。
しかし話の途中で堪えきれなくなったのか、ある者は泣き、ある者はノヴに抱き着き慰めていた。
そこには同情や畏怖の念は全く無く、ただ愛情があるのみだった。
ローザは話を最後まで聞き、黙ってその場を去った。
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「じゃあ、また明日」
「おう!また明日な」
道場の扉を開けるとすっかり暗くなった空が飛び込んできた。無数の星の微かな光が空を埋め尽くす光景は見慣れた王都に彩りを与えてくれる。
扉を開け道場の玄関先に立ったノヴはふと空を見上げ、思いを馳せる。そして振り返り──
──あ、ありがとう。
そのままノヴは走って出て行ってしまった。しかし彼の伏せた顔から垣間見えた少しの照れと笑みをラデスは見逃さなかった。
──まあ、及第点か。
そう心の中で思い大きなあくびをしながら床に就くために自室に向かうラデスであった。
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夜が更けた王都は寝静まって、普段とは違うミステリアスな雰囲気に満ちている。
その中で地を駆ける音のみがノヴの耳に入ってくる。
徐々に息が切れ、道場が見えなくなった所でノヴは速度を落とした。
──話を聞いてくれたことは嬉しかったし、ようやく心が軽くなったって感じもするけど
…やっぱりちょっと恥ずいな。
「おい、お前何をやってる」
「え」
暗闇の中、誰かに話しかけられた。暗くてよく見えないが先ほどまでしんみりとしていた空気に緊張感が走るのだけは分かる。
謎の人物がこちらに近づいてくるのと同時にその人物の正体を理解した。
「あ」
重厚な鎧、王国の紋章が刻まれた白い外套。街を巡回している衛兵だ。よくよく考えてみればそうだ。元々この国は治安がいい方だったみたいだけど、十年前の…なんかの事件で衛兵が巡回するようになったって聞いた気がする。
王都の犯罪率が平均的に低いのは夜中まで彼らが働いてくれているおかげだとみんにが感心しているのを見たことがある。
「ああ、すみません。今、家に帰るところです」
「そうなのか?まあ、挙動不審な点は無さそうだな」
衛兵はノヴの様子を観察し、あたりを見回し溜息をつく。
「…しっかりしてくれよ。子供一人なんか犯罪者にとったら格好の餌だぞ。しかも最近は妙な雰囲気が立ち込めているからな」
「妙な雰囲気?」
「ああ、事件が起きているわけではないが…もしかしたら王都で何か起こるかもな」
ノヴは静まり返った王都を見る。何も異常な所はない。何もないが、確かに妙な胸騒ぎがする。
何か…第六感が何かを訴えてくるような、そんな感じがする。
「今日は家まで送ろう。さあ、早く行くぞ」
「は、はい」
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「ここでいいか?」
「はい、大丈夫です。お仕事頑張ってください」
「当然だ。これから夜遅くに帰るときは誰かと一緒に帰れよ」
優しくそう言うと衛兵はあたりを警戒しながら自分の持ち場へと戻っていった。
今の自宅の扉を開けると優しいシチューの香りが漂ってきた。
「あら、おかえり。ノヴ」
「おお、今日は少し遅かったな」
黒髪でちょび髭を生やした、ちょっと身長が低くて優しい今のお父さん。
赤髪でほんの少ししわの入った、料理がうまくて優しい今のお母さん。
「帰り道何にもなかった?ローザさんには迷惑かけなかった?」
「ママ、ノヴならそんなに心配しなくても大丈夫だ。この子は強い。なんたってこの私が──」
「もう!あなたは黙っててください!!」
母さんに一蹴され、しょんぼりする父さん。うちではよく見る光景だ。
「うん、だいじょうぶだよ。母さん」
「そう?それならいいんだけど…」
「お前が元気になれて本当によかったよ。一時期お前は私たちと口も聞いてくれなかったからな。ローザさんがお前を道場に誘ってくれなかったらと思うと怖くて仕方ないよ。ローザさんに感謝しろよ。ノヴ」
「もちろんだよ。父さん」
「そうそう!今日は二人の大好きなフリュー鳥のシチューよ!みんなで食べましょ」
食卓の準備をし始める母さんが玄関先に立ち尽くすノヴに当然の疑問を投げかける。
「どうしたの?早く入りなさい」
「二人とも。は、話があるんだ。ご飯の後でいいから」
勇気を振り絞って両親に話を振る。少し体が震えてくる。
『周りに頼る』
ラデスの言葉が彼の背中を押した。あともう一歩のきっかけを作った。
「そうか、わかった」
「…わかったわ。じゃあご飯食べちゃいましょ」
「……うん」
ノヴが家に入ろうとした時、ノヴの母が優しい声で彼を注意した。
「こら。私たちとの約束。もう忘れたの?」
「そうだぞ。これだけはちゃんと忘れずに毎日心がけようと言ったじゃないか」
明日も明後日もどれだけ他人と話せるだろうか。どれだけ大切な人と共にいられるだろうか。
命が著しく軽いこの世界。何気ない会話が最後の会話になるかもしれない。
だから、これだけは言おうって、忘れないようにしようって約束したんだった。
ちゃんと毎日一緒にいられたことの証に──
──ただいま。父さん。母さん。