二 公爵令嬢は研究漬け。(2)
「昨夜は随分楽しんだらしいね」
「ええ……それはもう……大盛り上がりでした……」
居た堪れず視線を逸らしながら白状するしかない私に対し、クライド様は一部始終を既に聞いたのだろう、私のぐったりとした様子を見るなり苦笑いを浮かべた。
その表情が若干固いのは、きっと気のせいではない筈だ。
「どこまで聞いたかとか、聞くのは野暮みたいですね」
「ここに辿り着くまでに、ダニング氏とファルコナー氏、それと学部長と話をした、とだけ伝えておこうか」
ダニングはアドルフさん、ファルコナーはエラさんのことである。そして学部長は私を手のかかる問題児としか考えていない。
つまり、これは私の醜態は全て暴露されたと見て良いだろう。因みに具体的にどう酷かったかは私の名誉のために伏せさせてもらいます。
……泣きたい。
とはいえ涙を流すのは心の中だけに留めて、私は二人分の飲み物を用意する。
二日前のように、向かい合わせにソファに座った。
クライド様の手元には紅茶、そして私の手元には徹夜のお供も兼ねる職員特製栄養ドリンクである。ちょっとばかり色がとんでもなく味もやっぱりとんでもないのだが、効果は抜群、なんなら重い風邪も一発で吹き飛ぶ代物……もとい劇物だ。
それを若干引き攣った顔で見つめるクライド様の前で一気に流し込むと、私は「それで、」と口を開いた。
「今回はどういったご用件でしょうか。研究の経過報告なら先日したばかりですので、報告できることは特にないのですが……」
「いや、今日は謝罪に来たんだ」
そう話すクライド様に、私はなるほど、と来訪時の彼の真剣そうな面持ちを思い出した。
だから今日は少し元気がないというか、いつもよりも他人行儀だったのか。
まあそんな彼の態度も、道中で聞いた私の醜態と出迎えた私の惨状によってだいぶ揺らがざるを得なかっただろうけど。
「自惚れでしたら申し訳ないのですが、それはもしかして事態を知っていて静観していたということでしょうか」
「やはり気がついて……」
「お恥ずかしながら、実は昨日ここの方に教えてもらって事の次第を把握したばかりなのです。それで、もしかしたら、と」
というのも、そこには推理なんていうこともない、至極単純な根拠があった。
私が婚約破棄で慌てていた時に、クライド様は気軽に構えていていいと私を宥めてくれた。あの時かけてもらった言葉は何かしらの確証がないと断言できないようなものだ。
それに、私がこの東棟に出入りする事ができるようになったのは、王妃様のお力添えがあったから。そして、クライド様が私に声をかけてくれたのは、ここで研究を始めてから二ヶ月ほど経った時のこと。
極め付けが、王妃様の派閥の筆頭はクライド様のお父上であるターフェン候であることだ。
護衛か監視か。今思えば、息子であるクライド様も何かしらで繋がっている可能性が高いに決まっているのだ。クライド様とは研究員と依頼者として、事務的な話か当たり障りのない話のどちらかしかしていなかったのもあって、私はこのことをすっかり失念していた。
やっぱり私はまだまだ未熟者だ。
「この数年、事情を知りながら貴女を悪意から守らなかった、その無礼をお許しいただきたい」
「お顔をあげてください、クライド様。私はもうセドリック様の婚約者ではないんです。寧ろ、謝るべきは私の方です」
真摯に頭を下げてくれたクライド様を見て、私は改めて感じる。
私はこんなにも大事に守られていたのだと。
「今となれば、この身ではやはりセドリック様を支えるには不足だったのだと思います。だってそうでしょう。これだけ周囲の方が気に掛けて下さっていて、その気になれば他の人の手を借りる事も容易い状況だったのに、私はそれをせず、結果事態を収めることが出来なかった」
これが本番の——王妃様も、クライド様も、東棟も、要するに大人の手助けが全くない状況であったなら。
その時はきっと、この程度では済まなかっただろう。もしかしたらそのまま件の令嬢に良いように立場を奪われて、家の恥となっていたかもしれない。これが家同士の喧嘩にでも発展すれば、もっと酷い結末になっていた。
「しかし、此度の騒動は貴女のあずかり知らぬところでの、宮廷内の派閥に端を発している。加えて貴女は研究を行っていた」
「なればこそ、婚約者としての教育を受けたにも関わらず派閥争いに気づかなかったなど言語道断です。それに、私の本分はセドリック様の婚約者ですから、彼を謀から守るのが第一です。それを疎かにするようなことは、いかなる理由であれしてはならないのです」
「私やイザベラ様が、君をそれが出来ない状況に追い込んだのだとしても?」
クライド様の言葉に、私は笑ってしまった。
反射的に溢れてしまったものだけれど、何故なのかは自分にもわからなかった。
「当然です。これは出来る出来ないの問題ではありません。私は務めを怠った。それ以上でもそれ以下でもない。それに、利用し合うのは宮廷では日常茶飯事じゃありませんか」
宮廷が恐ろしい場所だというのは、幼い頃からよく知っている。
美しい城の中、人の良い笑みの下で、人間関係が日々流れるように変わっていく。権力が動けば、簡単に掌を返される。実力が無ければ鼻で笑われ、足元を掬われて叩き落される。それが宮廷というものだ。
そんな場所で生きていくならば、常に状況を俯瞰し、自分が為すべきことを普段からわかっていなければならない。
自分がそこにいる意味すら理解せず、目先の物事に囚われれば踊らされるだけ。今回の私はまさにそれだった。王妃様が整えた場で、それを利用しきることもなく踊らされてしまった。
つまり、私の負けなのだ。
そんな私を、利用した側のクライド様が申し訳なく思う必要はこれっぽっちも無い。
「婚約者と研究員の二つをこなそうなど、私には分不相応でした」
「君は罰を望んでいたのか」
「そうかもしれません。最近調子に乗っている自覚はあったので」
笑顔と共に少しだけ茶化してみたけれど、クライド様は真剣な表情を崩さない。
「研究員の道は残ったということは、私にはまだすべきことがあるということ。普通の貴族の娘の責務は不得手なものですから、本当に良かった。とはいえ、どういう背景があれ私自身で打破出来てしまえば何も問題は無かったことですから、クライド様や王妃様にはご迷惑をおかけしました」
「……貴女は、本当に出来た人だ」
溜息を吐くクライド様を見る限り、今の言葉は決して褒め言葉ではないのだろう。しかし。
「お褒めに預かり光栄です」
私にはそう言って笑うことしかできないのだ。
案の定クライド様は私の言葉に複雑そうな表情をしていた。
「私は本来、君に対してどうこう言える立場ではない。けれど、」
躊躇いがちに、彼の視線が私を捉える。その真摯な眼差しが、私の笑顔の奥を知ろうとしているように感じられて、つい少しだけ身構えてしまった。
「君自身が言ったように、君はもうセドリック様の婚約者ではない。だから、これからは一人でなんとかしようとしなくて良いことを忘れないで」
けれど、続いた言葉はとても温かいもので。
つい気が緩んで、仮面じゃない方の笑顔が零れ出てしまった。
「でしたら、クライド様も私のことをあまり丁寧に扱わないで下さい」
「どういうことだ?」
「クライド様、時々呼び方がごちゃごちゃになってますよ。君とか貴女とか」
「それは……気がついていなかったな……」
私の指摘に、クライド様は「やってしまった」とばかりに、恥ずかしそうに視線を逸らした。
身分の扱いが適当な東棟内でしか起きていない現象だから、本当は別に気にすることでもないんだけど。正直場に流れるふわふわとした雰囲気に耐えられなくて、つい流れを変えようと口にしてしまった次第だ。
まあ、クライド様とは私が研究室に入りたての頃からの付き合いだ。大方妹みたいな、そんな感じに思われているのだろう。どうやら彼も順調に東棟の緩さに染まりつつあるようだ。
「長居するのも申し訳ないので、」と早々と席を立ったクライド様を見送るべく、私は研究室の扉に手をかけた。
次の経過報告の日取りを確認して、さあ別れの挨拶を、と思ったその時。
「全く、相変わらずここは碌な研究をしていないな」
そんな不穏極まりない台詞が、廊下の向こうから聞こえてきたのだった。




