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第6話 十年越しの再会

 ずきずきとした痛みに、春一は目を開けた。


 頬が痛い。肩も重い。足にも鈍い痛みが残っている。


「……っ」


 浅く息を吸う。ぼやけていた視界が少しずつ焦点を結んでいき、見えたのは見慣れたリビングの天井だった。


 しばらく瞬きを繰り返してから、ゆっくりと上半身を起こす。


「……夢か?」


 思わずそう呟いた時だった。腕を動かした感触に、春一は眉をひそめた。


 袖が長い。


 寝る前に着ていたTシャツの感触ではない。


「……なんだ、これ」


 視線を落とすと、自分が身につけていたのは、くすんだ色合いの着物だった。


 理解が追いつかないまま周囲を見回し、少し離れた床に小春が倒れているのに気づく。


「小春。おい、小春」


 近寄って肩を揺すると、小春が小さく呻いた。


「……ん」


 ゆっくり目を開け、焦点の合わない目で春一を見る。


「……お兄ちゃん?」

「起きろ」

「んー……」


 まだ半分眠ったままの顔で身体を起こした小春は、すぐに自分の袖に気づいたらしい。


「……え?」


 ぱちぱちと瞬きをして、慌てたように身体を見下ろす。


「……着物なんだけど」

「俺もだ」


 小春はようやく周囲を見回し、ここが家だと理解したらしい。


「え、なんで?ここ家だよね?」

「見ればわかる」

「だよね!?でも、なんで着物!?」

「それを今考えてる」


 春一自身、混乱していた。


 ついさっきまで――いや、ついさっきと呼んでいいのかもわからないが――自分たちは、あの時代にいた。


 信長と名乗る生意気な少年に出会い、日吉丸と竹千代に会った。丘へ登り、夕焼けを見て、五人で泰平の世について語った。信長が勝手に「泰平同盟」などと言い出して、呆れながらも笑ったことまで、はっきりと覚えている。


 その後、夜の山道を下った。満天の星の下、夜の虹を見た。そして、小春が足を滑らせ――。


 そこで記憶は途切れている。


「……お兄ちゃん」


 小春の声に、春一は顔を上げた。


「これ、夢じゃないのかな」

「だろうな」

「えっ、即答?」

「夢なら説明のつかないことが多すぎる」


 春一は立ち上がろうとして、肩と足に痛みが走るのを感じた。


「痛っ……」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないが、動ける」


 腕には、枝で引っかけたような擦り傷がある。向こうの山道でできたものと同じ位置だった。小春も膝を押さえている。滑り落ちた時に擦った場所だろう。


「……傷もある」

「私も」

「覚えてるか」

「うん」


 小春の顔から、さっきまでの寝ぼけた気配が消えた。


「信長と、日吉丸と、竹千代」

「ああ」

「丘に行って、五人で話した」

「ああ」

「帰り道に夜の虹を見て、それで……」

「お前が落ちた」

「うん」


 小春は少しだけ表情を曇らせた。


「お兄ちゃんも、全部覚えてるんだよね」

「覚えてる」

「じゃあ、やっぱり夢じゃないんだ」


 春一はそれに答えず、壁の時計へ目を向けた。


 ――二十二時。


 その数字に、思わず目を細める。


「……小春。寝る前、時計見たか」

「え?」

「何時くらいだった」


 小春は少し考え、それからはっとしたように顔を上げた。


「……二十二時くらい」

「俺もだ」


 向こうで過ごした時間は短くない。信長たちと出会い、歩き、話し、そして夜を迎えた。少なくとも、こちらの時計がほとんど動いていないとは思えないほどの時間を過ごしたはずだ。


 それなのに、こちらではほとんど時間が経っていない。


「……どういうこと」

「俺が知りたい」


 春一は息を吐いた。


 理解できない。だが、ひとつだけはっきりしていることがある。


 何かが起きた。


 そしてそれは、夢や勘違いと片づけていいものではない。


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


「今日は寝ろ」

「え?」

「考えても、今すぐ答えが出る話じゃない。明日、調べる」


 春一はもう一度、時計を見た。


「信長たちが、何者だったのか」


 小春は少し迷ってから、小さく頷いた。


「……うん」


 その夜、二人は普段着に着替えた。


 脱いだ着物を前に、小春が困った顔をする。


「これ、どうしよう」

「畳んで置いておけ」

「洗濯しなくていいの?」

「やめとけ」

「なんで?」

「……五百年前のものかもしれない」


 そう言うと、小春が妙な顔をした。


「……文化財だったりする?」

「知らん」

「えっ、文化財着て山道転がったかもしれないってこと?」

「とりあえず寝ろ」

「返しが雑!」


 騒ぐ小春を適当にあしらいながら、春一は着物を丁寧に畳んだ。


 笑い飛ばせるような話ではない。だからこそ、少しでもいつも通りに振る舞うしかなかった。


 翌日、春一と小春は図書館にいた。


 日本史の課題があると言っていた小春にとっては、もともと来る予定の場所だ。ただし、今日の目的は課題だけではない。


 戦国時代。織田信長。そして、日吉丸と竹千代。


「どこから調べる?」

「日吉丸と竹千代からだ」

「信長じゃなくて?」

「信長は有名すぎる。同姓同名の可能性がまだある。でも、日吉丸と竹千代まで一致したら、偶然じゃ済まない」


「なるほど……」


 二人はテーブルに本を広げた。


 最初は確認するだけのつもりだった。どこかで勘違いしているのかもしれない。そう思っていた。


 だが。


「……日吉丸。木下、藤吉郎」


 ページを追っていた小春の指が止まる。春一も、別の本で同じ名を見つけていた。


 信長に仕え、やがて羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉となる男。


「……ほんとに」


 小春が呟く。春一は答えず、次の本を開いた。


「松平……竹千代」


 それを口にした瞬間、小春がこちらを見た。


「えっ」

「織田で人質生活を送った松平家の嫡男。のちの徳川家康」

「竹千代って……家康?」

「ああ」


 二人とも、しばらく言葉が出なかった。


 織田信長。


 豊臣秀吉。


 徳川家康。


 あの時代を代表する三人の名が、目の前に並んでいる。


「……三英傑じゃん」

「そうだな」

「私たち、戦国三英傑の若い頃に会ったってこと?」

「今のところは、そうなる」

「いやいや、そんなことある?」

「普通はない」


 春一は淡々と返したが、内心は穏やかではなかった。むしろ、だからこそ平静を装っていた。


 小春はまだ信じられないといった顔で、本と春一を見比べている。


「私、竹千代なんて名前知らなかったよ」

「俺も知らなかった」

「藤吉郎はなんとなく聞いたことあるけど……でも、日吉丸は全然知らない……」

「だろうな」


 つまり、都合よく知識をつぎはぎして見た夢、という説明も難しい。


 そこまで考えた時だった。


「あ」


 小春が、ペンケースを開いたまま固まった。


「どうした」

「これ」


 差し出されたのは、小さくなった消しゴムだった。


 油性ペンで黒く塗った星。その半分だけが描かれている。断面は、まっすぐだった。


 あの時、泣きじゃくる竹千代に小春が「お守りだ」と言って渡した片割れ。


「……半分だな」


 春一が言うと、小春はこくりと頷いた。


「昨日、新しくしたばっかりだったのに」

「向こうで切ったんだったな」

「うん」


 小春は消しゴムを見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……やっぱり夢じゃなかったんだ」


 春一も、否定はできなかった。


 着物だけでも十分だった。傷もある。時間もほとんど経っていなかった。


 そこへ、この消しゴムだ。


 否定する方が、もう難しい。


 何気なく、春一は信長について書かれた本を手に取った。


 年表を追う。

 桶狭間。美濃攻略。姉川。長篠。


 さらに目を滑らせて――手が止まった。


「……小春」

「なに?」

「信長、1582年に死んでる」


 小春が顔を上げる。


「え?」

「本能寺の変があった年だな」


 春一は本を小春の方へ向けた。


 明智光秀の謀反。織田信長、自害。


 あの丘の上で、「乱世を終わらせてやる」と言っていた少年が、いずれそこで死ぬ。


 小春の表情が曇った。


「……死ぬの?」

「歴史通りなら」

「そんな」


 春一はさらに頁をめくった。


 日吉丸――秀吉の生涯。

 竹千代――家康の歩み。


 有名な合戦。大きな出来事。裏切り、敗北、死。


 ただの知識として見ていたはずのものが、急に重さを持ちはじめる。

 それはもう、二人にとってただの歴史ではなかった。


「嫌だな」

「何が」

「あの三人が、こんな戦いの中に行くの」


 春一は、すぐには答えられなかった。


 嫌だ、と思う資格が自分たちにあるのかもわからない。けれど、そう感じる気持ちは理解できた。


「……また会いたいな」


 小春のその一言に、春一は顔を上げた。


「小春」

「わかってるよ。もう会えないかもしれないのも」

「そうじゃない」


 春一は本を閉じる。


「もしまた会えたとして、俺たちは未来を知ってる」

「うん」

「向こうの連中は知らない」


 小春は黙った。


「俺たちが何か言えば、歴史が変わるかもしれない」

「でも」

「なんだ」

「死ぬってわかってるのに、黙ってるの?」


 その問いは、春一の胸の奥へ重く沈んだ。


「もし、また信長に会えたら」


 小春は消しゴムを握りしめながら言う。


「本能寺で死ぬって知ってるのに、何も言わないの?」


 春一は答えなかった。答えられなかった。


 それから、一週間が過ぎた。


 あの夢――と呼ぶには無理がある出来事は、二度と起こらなかった。夜の虹も見ていない。


 けれど、小春は相変わらず戦国時代の本を読んでいたし、春一もまた、史実を調べ続けていた。知れば知るほど、あの三人の先に待つものの重さが見えてくる。


 その日も、春一は自室で本を読んでいた。


 不意にスマートフォンが鳴る。画面には、小春の名前。


「何」

『お兄ちゃん!』

「うるさい」

『虹!』


 一瞬、春一の思考が止まった。


「……何だって?」

『出てるの! 夜の虹!』


 椅子を蹴るように立ち上がり、春一は窓へ駆け寄った。空を見上げる。


 日の落ちた空に、淡い光の弧がかかっていた。——見間違えるはずがない。


「……どこにいる」

『図書館の帰り!』

「今すぐ帰ってこい」

『うん!』


 通話が切れる。


 春一は窓の外を見たまま、短く息を吐いた。


 本当に、また出た。


 偶然とは思えない。いや、思ってはいけないのかもしれない。


 小春が帰宅する頃には、春一の中で覚悟は半分決まっていた。


「行く気か」


 玄関から飛び込んできた小春にそう言うと、彼女は目を丸くした。


「行けるかはわかんないけど」

「その割に、もう荷物を出してるな」


 リビングの床には、リュックとボストンバッグ。小春はすでに、水やら食料やらを並べ始めていた。


「備えあれば憂いなし!」

「限度がある」

「向こうで何日いるかわかんないじゃん」

「何日もいる前提か」

「だって、もし帰れなかったら困るし」


 言いたいことはわかる。だからこそ、春一も完全には止められなかった。


「これは?」

「水!」

「多い。減らせ」

「えー」

「こっちは?」

「カロリーメイト」

「何箱ある」

「六箱」

「減らせ」

「お兄ちゃん厳しい」

「誰が持つと思ってる」


 そう言うと、小春がにっこり笑った。


「お兄ちゃん」

「減らせ」

「はーい」


 結局、大きな荷物は春一が背負うことになった。小春には、救急セット、ノート、筆記具など、すぐ使うものだけを入れた軽いリュックを持たせる。


「……で」


 荷造りが終わったところで、春一は窓の外を見た。


「どうやって行く」

「寝る」

「雑だな」

「でも前はそうだったじゃん」

「……それだけか」

「あとは虹が出てること!」


 あまりにも根拠が薄い。だが、それ以外に方法もない。


「家じゃなくて、外に行こう」

「なんで」

「空がちゃんと見えるところの方がいい気がする」


 春一は少し考えた。


 前回、戻ってきた場所は家だった。だが、消える直前の記憶は山道だ。夜の虹が鍵なら、空が見える場所の方がいいのかもしれない。


「……行くぞ」

「やった!」

「遠足じゃない」

「わかってるって」

「絶対わかってない」


 二人が向かったのは、家から少し離れた高台の公園だった。


 芝生の広場。見上げれば空が広く、住宅街の明かりが遠くに見える。


 夜の虹は、そこからもはっきり見えた。


 レジャーシートを敷き、その上に横になる。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「何」

「また会えるかな」

「……さあな」


 春一は夜空を見上げた。


 あの時と同じ虹。同じような静けさ。

 だが、同じ場所、同じ時間に繋がるとは限らない。


「会えたとしても、前と同じ時代とは限らない」

「どういうこと?」

「こっちでは、ほとんど時間が経ってなかった。逆に、向こうでは何年も経ってる可能性もある」

「……そっか」

「子どものまま会える保証はない」


 しばらくして、小春が小さく言った。


「それでも会いたい」


 迷いのない声だった。それを聞いて、春一は目を閉じる。


「お前一人で行かせる気はない」

「それ、答えになってなくない?」

「寝ろ」

「ごまかした」

「うるさい」


 少しだけ、小春が笑う気配がした。


 静かな夜風が吹く。


「お兄ちゃん」

「まだ何かあるのか」

「もし向こうに行けたら、未来のことは喋らない方がいい?」


 春一は少し考えた。


「むやみには喋るな」

「……やっぱり、歴史が変わるから?」

「変わるかどうかもわからない」

「じゃあ」

「わからないからこそだ」


 それだけ言うと、春一はそれ以上話さなかった。小春も、しばらくすると静かになった。


 やがて意識が、ゆっくりと沈んでいく。


 次に目を開けた時、春一の頬には冷たい土の感触があった。


「……っ」


 草の匂い、夜気の冷たさ。すぐに公園ではないとわかった。


 身体を起こすと、周りは木々に囲まれていて、山が見える。


 見知らぬ場所だった。


「小春」

「ん……」


 隣で、小春も目を覚ます。


「ここ……!」

「たぶん、来たな」


 その傍らには、持ってきた荷物がそのまま転がっていた。


 春一が周囲を見回した、その時だった。


「何者!」


 鋭い声が夜気を裂いた。


 反射的に振り向く。そこには、鎧をまとった男が立っていた。

 長い黒髪を高い位置で結い、切れ長の目をこちらへ向けている。

 手には大きな槍。月光を受けた刃が、冷たく光った。


「……動くな」


 春一が小声で言う。


 だが。


「ご、ごめんなさいっ!」


 小春は半歩下がった。


「小春っ」


 男が一歩踏み込む。


「何者だと聞いておる!」


 殺気にも似た威圧感があった。


 その瞬間、小春が身を翻した。


「おい!」

「無理!」


 逃げた。躊躇なく、全力で。


「待て!」


 鎧の男が追う。


「待て、小春!」


 春一も叫んだが、小春は止まらない。

 いや、止まるどころか速い。


「小春!速い!」

「お兄ちゃんが遅い!」

「荷物持ってるからだろ!」


 自分だけ大荷物を背負わされている現状に、一瞬腹が立った。


 だが、そんなことを言っている場合ではない。


 その時。


「きゃっ!」


 小春の身体が前へ倒れた。


「小春!」


 足に縄のようなものが巻きついている。


 いつの間にか、黒い忍装束の男が現れていた。静かな目。気配の薄さ。


 あの距離から縄を投げたのか。


 鎧の男と忍装束の男が、小春へと近づいていく。春一は迷わず荷物を放り出した。そのまま小春の前に立った。


「下がってろ」

「でも」

「いいから」


 武器はない。勝てるわけもない。


 それでも、ここで退くわけにはいかなかった。


「俺たちは敵じゃない」

「ならば名を申せ」


 槍の男が低く言う。


 春一が口を開きかけた、その時だった。


「待てっ! 忠勝! 半蔵!」


 鋭い声が飛び、男たちが動きを止めた。


「殿」


 忍装束の男が振り返る。


 現れたのは、一人の若武者だった。迷いのない足取りで、こちらへ歩いてくる。


 忠勝と呼ばれた男も、半蔵と呼ばれた男も、その人物に道を開けた。


 ――殿。


 その呼び方に、春一の胸がざわつく。


 若武者は、春一たちの前で足を止めた。

 月明かりの下、その顔がはっきりと見える。


 もう幼い子どもではない。だが、面影があった。大きな瞳、優しげな眼差し。


 どこか泣きそうだった、あの頃の面差しをわずかに残したまま、凛とした武人の顔つきになっている。


「……まさか」


 小春が息を呑む。


 春一も理解した。


 忠勝、半蔵。そして、彼らが殿と呼ぶ主。


 この組み合わせに当てはまる人物を、つい最近、本で見たばかりだ。


 若武者の視線が、まず春一に向いた。そして次に、小春へ移る。


 その瞬間、彼の表情が揺れた。


 驚きと懐かしさが入り混じり、信じられないものを見るような目だった。


 まるで、長い間探していた何かに、ようやく辿り着いたかのような。


 若武者の唇が、かすかに震えた。


「……小春殿……?」

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