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『国語の教科書に載るような短編集』

#018『波に返す大聖堂・続』

掲載日:2026/07/01

 なぜだかわからないんですが、昔から「時期外れの場所」っていうのが好きでした。「夏を過ぎて、人がまばらになった海岸」とか、「雪が融けて、地面が見えているスキー場とか」。

 なんでなんでしょうね。不思議です。

 でも、賞味期限の切れた食べ物は嫌いです(笑)。

 ※『国語の教科書に載るような短編集』にまとめています。⇦今回のは、載りませんね(;^_^A



 014『波に返す大聖堂カテドラル』で描いた、中年の建築家とワンピースの少女の続編です。どちらかというと、こっちが本編ですね。お楽しみいただけると、幸いです。

『波に返す大聖堂カテドラル・続』


 風は昨日よりも鋭利で、容赦なく体温を奪っていく。

 五十代の肉体は、徹夜の代償を如実に訴えていた。目の奥には砂を噛んだような鈍い熱がくすぶり、防波堤の階段を降りるたびに膝の関節が微かにきしむ。口の中には、昨夜から飲み続けたインスタントコーヒーの嫌な酸味がへばりついていた。

 しかし、肩から下げた革の鞄に押し込んだ何枚ものラフスケッチと、左手に提げたずっしりと重い魔法瓶の感触が、私を異常なアドレナリンで前へ前へと突き動かしていた。

 午前八時の九十九里浜。

 防波堤の上に立ち、灰色の海を見渡す。

 波打ち際には誰もいなかった。

 ザザーッと、ただ圧倒的に無関心な波の音が轟き、私の鼓膜を叩く。胸の奥が冷水に浸されたように、急激に冷えていくのを感じた。

 あれは……幻だったのだろうか。

 永遠という呪縛を追い求めることに疲れ果て、すべてを枯渇させた五十路の男が見た、都合の良い白昼夢。そう考えれば合点がてんがいく。あんなにも完璧な造形を波に捧げ、すべてが泡になって消えても笑っていた。あんなにも純粋で狂気的な存在が、現実にいるはずがないのだ。

 仕方がない。帰るか……。

 自嘲的なため息を漏らし、きびすを返そうとした、その時。

 視界の端、打ち捨てられたテトラポッドの死角から、ひょっこりと動く白い影が見えた。

 打ち寄せる波の、本当にギリギリの境界線。昨日と同じようにうごめく、しゃがみ込んで作業をしているあの白いワンピースと大きな麦藁むぎわら帽子ぼうし

 ドクンと心臓が大きく跳ねた。

 まるで、何年も待ち焦がれた恋人を人混みの中に見つけた青年のように、私の胸の奥で熱い塊が破裂した。

 いや、そんな感傷的な感情ではない。私は自らの「表現」の半身を、確かな熱を帯びたただ一人の同志を、魂の底から渇望していたのだ。

 私は小走りで砂浜に降りた。ジャリジャリと冷え切った乾いた砂を踏みしめる。

 私の足音に気づき、彼女は作業の手を止めてこちらを振り向いた。

「おはよう」

 努めて平静を装って声をかけると、彼女は黒曜石のように澄んだ瞳で私を数秒見つめ、小さく頷いた。

「おはようございます、おじさん。今日もスーツを台無しにしに来たんですか? 酔狂な人ですね」

 少しハスキーな声。あどけなさと大人びた冷たさが同居するその響きに、私は思わず顔をほころばせた。

「今日も一緒に作っていいかな」

「いいですよ。ただし……」

「足手まといにはならないよ」

「そっか。建築のプロですもんね」

 私は笑い、魔法瓶を波の届かない乾いた砂の上に置くと、躊躇ためらいもなくウール混の高級なスラックスの膝を折って、彼女の隣の濡れた砂の上に座り込んだ。生地を通して染み込んでくる強烈な海水の冷たさが、徹夜明けの熱を持った身体にはむしろ心地よかった。

 私たちは、しばらく無言で湿った黒い砂を積み上げた。

 指先に伝わるザラザラとした摩擦と地球の冷たい体温。波が引く度に、足元の砂がシュワシュワと音を立てて崩れていく。

「きみのせいで、昨夜は一睡もできなかったよ」

 私は昨日と同じように右の塔の土台を固めながら口を開いた。

「私を思い出しながら、何をしてたんですか?」

「図面を引いてた。おかげでこの《《体たらく》》さ。責任を取ってくれるかい?」

「大人のエゴが溢れた責任転嫁ですね。それにしても、おじさん、いい年して徹夜なんて、体力あるんだ」

「いい年じゃない。私はまだ五十四歳だ」

「私と三十七歳差ですね。いい年です」

 彼女がふふっと笑う。潮の匂いに混じって、彼女の髪から微かに甘い匂いがした。

「昨日、きみが波にさらわれる城を作っているのを見て、気づいたんだ」

 私は手のひらの砂の重みを感じながら、ゆっくりと語り始めた。

「私は三十年間、自然という抗えないものを、コンクリートという『枠』でせき止めて、時間を固定することばかり考えていた。変化を拒絶し、永遠を信じ込もうとしていた。決して壊れないものだ。だから、なにを作っても苦しかったんだな」

「時間を固定する……」

 彼女の指の動きが止まった。少女の横顔は、朝の青白い光を受けて透き通るようだった。

「それ、すごくわかります」

 彼女はぽつりと呟き、手元の砂のアーチを見つめた。

「私、美大の予備校で石膏デッサンしたり、粘土でマネキンみたいなのを作らされたりするんです。でも、あれって死んでるみたいで気持ち悪い」

「気持ち悪い?」

「はい。みんな、時間を無理やり止めて『永遠に残るもの』を作ろうと必死になってる。アトリエの空気が強張って、息が詰まりそうでした」

 彼女の声には十代特有の鋭い孤独と葛藤が滲んでいた。

「私は、いままさに動いているもの、壊れていく途中の形が一番綺麗だと思うのに。……変ですか」

「いや、少しも変じゃない」

 三十年のキャリアを持つプロの挫折と、これから美大を目指す少女の葛藤が、「時間を止めようとする社会への違和感」という一点において、寸分の狂いもなく共鳴していた。

 ただし、求めるものは真逆だが。

「都市が水害にもろいのも、それと同じ理屈だ」

 私は建築家としての視点を口にした。

「都市は、水を敵として外にはじき出そうとする。そのために、どうする?」

「堤防を造る」

「そう。堤防っていう枠を作って、絶対に中に入って来るなと拒絶する。……だから、その枠が決壊した時に、中のものはすべてを失う」

「そうですね」

「失わないためにどうするか、それが私の仕事だった……」

 そう、私が言うと彼女は麦藁帽子の下で面白そうに目を細めた。そして、無邪気に言葉を放った。

「じゃあ、邪魔しなきゃいいんじゃないですか?」

「え?」

「せき止めないで、最初から水が通る道を作ってあげればいいじゃないですか。波が来たら、お城の中を水が綺麗に流れるように」

 雷に打たれたような衝撃だった。波を拒絶するのではなく、波を内部に導き入れる構造。水を受け入れ、水と共に完成し、やがて美しく崩壊していく流転の都市。

 それだ。私が昨夜描き殴ったスケッチの先にある、真の「生きた建築」の答え。

 その革新的なアイデアに私が言葉を失っていた、まさにその瞬間。

 ヒュオオオオッと、沖からひときわ強い刃物のような朝の突風が吹き付けた。

 バサァッ!

 彼女の薄手の白いワンピースが、容赦ない風に煽られ、胸の下あたりまで激しくめくれ上がった。秋の冷たい朝の空気に、無防備な素肌と、鳥のように細い太腿が完全に晒される。

 しかし、彼女はめくれ上がるスカートの裾を直そうともしなかった。

 突風で飛ばされそうになる麦藁帽子を、泥だらけの右手の甲で必死に頭に押さえつけながら、左手だけでなんとか崩れかけた砂のアーチを支えようと悪戦苦闘しているのだ。自分の肉体がどう晒されていようと全く頓着せず、ただ目の前の造形と視界を守るための帽子にだけ全神経を集中させている。

 そのあまりに極端な姿勢は、純粋さを通り越して、やはり狂気じみて危うかった。

 私は短くため息をつき、濡れた砂から両手を離した。軽く手のひらの砂を払ってから、無言のまま彼女に身を寄せ、横から彼女の麦藁帽子を押さえる。

「え……」

 私の手が帽子をしっかりと固定したことで、彼女はハッとして動きを止め、私を見上げた。至近距離で、彼女の黒い瞳が驚きに見開かれている。

「帽子は私が押さえる」

 私は波の音に負けないよう、はっきりと言った。

「だからきみは……せめてスカートを押さえるか、両手で作業を続けなさい」

 大人の男としての常識的な忠告。しかし彼女は、一瞬きょとんとして自分の露わになった下半身を見下ろし、それから小さく吹き出した。

「また、見たんですね」

「見たいわけじゃない」

「そういうことにしておきます」

 そう言いながらも、結局彼女はスカートの裾には一切触れることなく、自由になった両手を再び嬉々として濡れた砂に突っ込んだのだ。

「ありがとう、おじさん。じゃあ、帽子、よろしくね」

「スカートを直さないのか?」

 私の問いかけに、彼女はすぐには答えなかった。

 ただ、濡れた砂を掴む彼女の指先が、わずかにピクリと動いた。その黒曜石のような瞳は、私の姿を映しているようでいて、その実、私の背後に広がる無限の海と、手のひらの中の重力だけを凝視している。

 彼女の脳内からは「社会的な羞恥心」という俗っぽいノイズが、完全にシャットアウトされているのだ。己の造形を完成させるためだけに、すべての神経が研ぎ澄まされた、一種の神聖なトランス状態。

「直さないよ。だって、この手で触ったら砂で汚れるもん。――気になるの?」

 ふっと我に返ったように彼女が言った。だがその声は、やはり他人の目を気にする少女のそれではなく、ただ純粋な事実を告げるような平坦さだった。

「なるさ。下着は見せないから下着なんだ」

「そっか。でも、このままでいいや」

 天真爛漫てんしんらんまんなどという言葉では生ぬるい。これは、表現という聖域にのみ生きる、美しくも恐ろしい怪物だ。

 私の手を通じて、彼女の頭部の微かな動きと、真剣に砂と向き合う静かな熱が伝わってくる。

 彼女はすべてをさらけ出して作る者。

 私はそれを物理的に支えながら、守って共に世界を設計する者。

 冷たい海風が吹き荒れる波打ち際で、五十代の枯渇した建築家と、十七歳の危うい少女の間に、誰にも立ち入れない絶対的な「共犯関係」が結ばれた瞬間だった。

 やがて、刃物のような突風がふっと息を潜めた。

 私はゆっくりと彼女の麦藁帽子から両手を離す。彼女もまた、ふうっと小さく息を吐き、砂まみれの両手を膝の上に置いた。

 その直後だった。

 満ち始めた潮が、ひときわ大きなうねりとなって私たちの足元まで這い上がってきた。冷たい海水が、彼女がさきほどまで必死に守り抜いた砂のアーチの足元を、容赦なく舐め上げる。

「あ……」

 彼女が小さく声を漏らす。だが、波はアーチを完全に破壊するのではなく、彼女が造形した歪な隙間を縫うようにして内部へと流れ込んだ。水は砂の城の胎内を巡り、柔らかな曲線を描きながら、やがて引いていく波と共に海へと還っていく。

 そこには、水が通った滑らかな「道」だけが、まるで血管のように美しく残されていた。

『最初から水が通る道を作ってあげればいいじゃないですか』

 先ほどの彼女の言葉が、目の前の光景と完璧に重なり合い、私の脳内で強烈なスパークを起こした。

「……これだ」

 私は弾かれたように身を乗り出し、濡れた砂の上に膝をついたまま、泥だらけの手で傍らの革鞄を引き寄せた。留め具を乱暴に外し、中から分厚いクロッキー帳を引っ張り出す。そして、胸ポケットに差していた高級な製図用の万年筆には目もくれず、鞄の底に転がっていたスケッチ用の太い4Bの鉛筆をわしづかみにした。

 バサバサと海風に煽られるページには、昨夜私が一睡もせずに引いた無数の線が残されていた。

 コンプライアンス、強度計算、予算、そして「永遠」。定規で一ミリの狂いもなく引かれた冷徹な線は、私の三十年間のプライドそのものだった。

 だが、その完璧な図面は、飛び散る塩水ですでに不格好にふやけ、波打ち際の湿気でしわくちゃに波打っていた。私の泥だらけの指が触れた瞬間、美しいはずの青写真が黒く汚れていく。

 私は自らの手でその過去の残骸の端をクシャリと掴み、ページをめくった。昨日までの自分を物理的に踏みにじるようにして、真っ白な余白に、太い4Bの鉛筆を力任せに叩きつける。

 ガリッ、ズザザッと、静かな波打ち際に暴力的な黒鉛の摩擦音が響く。

 波を導き入れるスリット。水をはらみ、波と共に呼吸する建築の骨格。

 私の手は震え、柔らかい鉛筆の芯がボロボロと崩れ落ちては紙面を黒く汚していく。泥のついた親指で線をこすり、乱暴に陰影をつける。

 五十路の男が、三十年のキャリアとプライドをかなぐり捨て、ただ眼前の「生命」を紙に定着させることだけに没頭していた。

 息が荒くなる。心臓が早鐘を打ち、冷え切っていたはずの全身からじわりと汗が滲む。潮の匂いに混じって、削られた鉛筆の木と黒鉛の生々しい匂いが鼻腔を突いた。

「……ふぅっ」

 どれくらい時間が経っただろうか。私は鉛筆の動きを止め、大きく、ひび割れた息を吐き出した。

 クロッキー帳には、私がこれまで描いてきたどんな図面よりも不格好で、泥と黒鉛にまみれた、しかし圧倒的な熱量を持つ「流転する都市」のラフスケッチが産声を上げていた。

 私は隣でじっとその狂気的な過程を見つめていた彼女に向けて、その汚れたページを差し出した。

「これが……きみの言った、水を受け入れる都市だ」

 私の声は微かに上ずっていた。

 クライアントに完璧な設計図をプレゼンするのとは、わけが違う。自分の最も醜い迷いと、生まれたばかりの脆い衝動を、十七歳の少女の前ですべてを晒し出しているのだ。ひどい恐怖とそれ以上の高揚感があった。

 彼女は麦藁帽子のつばを少し押し上げ、クロッキー帳を覗き込んだ。

 彼女の澄んだ黒曜石の瞳が、紙面の端に残る「昨夜の死んだ線」といま描き殴ったばかりの「生きた線」を静かに往復する。

 やがて、彼女は泥だらけの指先をそっと伸ばし、私の描いた太く粗い線の上を、確かめるように撫でた。

「おじさん……」

「どうだ?」

「……下手くそだね」

 彼女はポツリと呟いた。

「そうか……」

 私は思わず沈んだ声を出してしまった。へたくそと言われるとは思っていなかった。

「ちがうよ。おじさんの昨日書いた線、カチカチで全然つまんない」

 さらに彼女は続けた。

「でも、いまのこの線……すっごく、生きてると思う」

 昨日出会ってから初めて、心の底から嬉しそうに目を細めて彼女は笑った。

 彼女の無邪気で的確な言葉は、三十年分の私の虚栄心を心地よく粉砕した。

「美大の予備校でみんなが必死に描いてる死んだ線より、ずっと綺麗。私、これ好き」

 彼女はそう言って、真っ直ぐに私を見た。

 この瞬間、私たちを隔てていた「大人と子ども」「教える者と学ぶ者」という社会的な階層は完全に消滅した。ここにあるのは、自らの弱さと渇望を晒し出した男と、それを直感で受け止めた少女という、対等な表現者としての魂の共鳴だけだった。

 しばらくの間、私たちはどちらからともなく口を閉ざし、目の前のクロッキー帳と互いの顔を交互に見つめていた。ただ圧倒的な波の音だけが、満ち足りた沈黙を埋めている。

 やがて、彼女が小さく身震いをして、真っ直ぐな視線をふっと解いた。

「……ちょっと、寒いね」

 その一言で、張り詰めていた魔法が解けた。現実の物理的な感覚が一気に押し寄せてきた。

 クロッキー帳の上で暴れ回っていた熱狂の余熱が引いていくにつれ、五十路の肉体は急速に体温を失っていることに気づかされた。そして、喉の奥が砂を噛んだようにカラカラに干寂びていることにも。徹夜明けの口内に残る、あのインスタントコーヒーの嫌な酸味がまたチリチリと自己主張を始めている。

 私は傍らの乾いた砂の上に放置していた、ずっしりと重い魔法瓶を引き寄せた。

「コーヒーを淹れてきたんだ。飲むかい?」

 私が尋ねると、彼女は砂まみれの指先を払うこともせず、無言でこくりと頷いた。

 魔法瓶の蓋を回すと、プシュッという微かな音と共に、白い湯気が冷たい空気に解き放たれた。深く焙煎された豆の香りが、纏わりつく潮の匂いを一瞬だけ遠ざける。

 しかし、カップ代わりになる外蓋に黒くて熱い液体を注ぎ終えたところで、私はふと手を止めた。

「……すまない。よく考えたら、カップがこれ一つしかないな」

 大人の男として当然の躊躇いだった。衛生的な問題はもちろんのこと、五十四歳の男と十七歳の少女が一つのカップを口にするなど、世間の枠組みに照らし合わせれば異常な光景だ。どうやって彼女に飲ませるべきか、あるいは諦めるべきか。私が戸惑い、コンクリートのように固まった「常識」に囚われていたその時だった。

「ん。ちょうだい」

 彼女はなんの躊躇いもなく手を伸ばし、私の手からコップをあっさりと奪い取った。  泥と砂にまみれた細い指が、綺麗なステンレスの縁を無残に汚す。彼女はそんなことには一瞥もくれず、熱い液体にふうふうと息を吹きかけて、そのまま小さな唇をつけた。ごくりと喉を鳴らした。

 男女の駆け引きや、社会的な羞恥心といった俗っぽい意識は、彼女の頭の中には微塵も存在していない。ただ「喉が渇いたから、目の前にある水分を摂取する」。そこにあるのは、極限まで無駄を削ぎ落とした、野生動物のような純粋さだけだった。

 余計なことを考えていた自分が、なんだか恥ずかしい。

「ふう。温かくて生き返る」

 彼女は満足げな息を吐き、コップを私に差し出した。

「ごちそうさま。すごく美味しいよ。はい、おじさんの番」

 差し出されたコップの縁には、彼女の指から移った黒い砂粒が幾つかべったりと付着していた。

 私は小さく息を吐いて、苦笑した。この圧倒的な天衣無縫さの前では、私が三十年かけて築き上げてきた常識や倫理の防波堤など、砂の城のように呆気なく波に飲まれてしまうのだろう。

 私はもう何も言わず、彼女からコップを受け取った。黒い砂粒がついたままの縁に口をつけ、少しぬるくなったコーヒーを喉の奥へと流し込んだ。

 ――確かに美味い。

 豆の深い苦味が、徹夜で冷え切った五体の隅々にまで、確かな熱を持って染み渡っていく。口の中にこびりついていた嫌な酸味は完全に消え去った。代わりに、共に何かを創り上げた者だけが分かち合える、豊かで泥臭い充実感が広がっていた。

 ザザーッと私たちの足元で波が砕ける。

 同じ波の音を聞きながら、私はゆっくりと息を吐いた。胃の腑に落ちたその確かな温かさは、完全に枯渇していた私の内側に、再び「表現者」としての命の火が灯ったことをはっきりと告げていた。

 私は空になったコップから視線を上げ、眼前に広がる灰色の海を見据えた。

 絶え間なく打ち寄せる波は相変わらず冷酷だが、不思議と昨日までの拒絶的な壁には見えなかった。

 隣に座る彼女もまた、じっと同じ海を見つめていた。やがて、彼女はふらりと立ち上がると、私の内側に芽生えたばかりの熱を正確に見透かしたような、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ねえ、おじさん」

 彼女は濡れた砂浜を指さして言った。

「そのスケッチの通りにいくか、ここで試してみようよ」

「試す?」

「そう。私が、絶対に波に壊されたくない『頑丈な街』を作る。おじさんはその水路を作って、波から私の街を守り抜いてよ」

 それは痛快なまでの挑戦状だった。

 彼女が作ろうとしている「波を拒絶する街」とは、まさに私が三十年間囚われ続けてきた古い概念そのものだ。そして、彼女が提案したものは、新たに彼女が思いついた未来の形だった。

「……面白い。やってみよう」

 私は革靴を脱ぎ捨て、濡れた砂浜へと足を踏み入れた。

 彼女はすぐさま無造作に砂をかき集め、無骨で壁のように分厚い塔や建物を次々と屹立させていく。私はその傍らに膝をつき、彼女の作った障害物を縫うようにして、スケッチの理論通りの流線型の水路を無言で掘り始めた。

 自然という巨大な暴力は無情だ。現実は理論など、いとも容易く裏切ってくれる。

 ドザァッと押し寄せた第一波は、私の掘った浅い水路を嘲笑うかのように易々《やすやす》と乗り越え、彼女の作った角ばった塔の根元を無残に抉り取った。塔はあっけなく崩落し、泥水となって海へ引きずり込まれていく。

「あーあ、流されちゃった。おじさんの下手くそ!」

 言葉とは裏腹に彼女がケラケラと無邪気に笑う。

「……ちがう、スリットの角度が浅すぎたんだ」

「下手くそなんじゃん」

「……待ってろ、もう一度だ」

 私の内部で、五十代の建築家としてのプライドと、泥遊びに熱中する少年の意地とが完全に混ざり合っていた。

 そこからの私たちは狂ったように砂と波と格闘した。

 協奏曲……いや、狂騒曲だった。

 冷たい海水を吸った砂はずっしりと重く、かき出すたびに爪の間には黒い泥が容赦なく入り込む。何度も波に洗われ、水路が決壊し、街が崩れる。

 その度に彼女は「あそこが狭い」「もっと深く掘って!」と声を張り上げ、私はムキになって修正を重ねた。

 冷たい潮風に吹かれているはずなのに、私たちは熱狂した。

 海水と黒鉛、そして互いの汗の生々しい匂いが混じり合う、圧倒的な生の実感がそこにあった。

「……よし。これでどうだ」

 息を切らしながら私が立ち上がった時、足元には複雑な血管のようにうねる深い水路と、それを強固な土台としてそびえ立つ彼女の街が完成していた。

 やがて、ひときわ大きなうねりが沖から迫ってきた。満ち潮の最も重い波だ。

「来るぞ」

 私が低く呟くと、隣に立つ彼女も息を呑んで足元を見つめた。

 ズドォォンという腹の底に響く重い波音と共に、白波が私たちの街に襲いかかる。

 しかし、今回は違った。

 破壊的なエネルギーを持った巨大な水塊は、私の計算し尽くして掘り抜いた水路の入口に吸い込まれる。その勢いを滑らかな曲線によって殺した。うねるような美しい水流へと姿を変えていく。水は迷路のような街の内部を滑らかに巡り、建物の基礎を優しく撫でる。そして引く波と共に静かに海へと還っていった。

 水が引いた後には、破壊されるどころか水分を内包してより強固になった。まるで全体が一つの生命体として静かに呼吸しているかのような、美しい「生きた街」になったのだ。

 その瞬間の圧倒的な静寂。

 波の音だけが響く中、彼女が「ふぅっ」と長く震える息を吐いた。

 そして彼女は、無言のまま、泥だらけの右手を私に向かってパッと突き出したのだ。

 私は一瞬、目を丸くした。ハイタッチ。そんな若者特有の軽薄なジェスチャーは、私の人生の辞書にはない。しかし、彼女の小さな手のひらにこびりついた黒い泥と、澄んだ瞳の奥にある真っ直ぐな称賛の輝きを見た瞬間、私の右腕は考えるよりも先に動いていた。

 ――ベチャッ、ジャリッ。

 決して爽やかな音ではなかった。

 水分を含んだ重い砂同士がぶつかり合い、手のひらに鋭い砂粒の摩擦と微かな痛みが走る。だが、その冷たく不快なはずの泥の感触の奥から、彼女の確かな体温と言葉にならない歓喜が、私の皮膚を突き破って直接流れ込んできた。

「……すごい」

 彼女は突き合わせた泥だらけの手をおろさず、真っ直ぐに私を見上げて笑った。

「波に飲まれてるのにちゃんと生きてる。私の街、おじさんが本当に守りきったね」

 その言葉の余韻が冷たい潮風に溶けようとした、その時だった。

 ぐぅぅぅ。

 波の音すら切り裂くような、情けなくも野蛮な音が足元から鳴り響いた。

 私ではない。

 目の前で会心の笑みを浮かべていた彼女の腹からだ。

 彼女が一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような顔になり、直後、私の腹の奥底からも、ぐるると低い音が呼応した。

 時計を見るまでもない。太陽はすでに中天をとうに過ぎ、傾きかけた秋の午後の光が海面を照らしている。冷たい泥にまみれ、何時間もぶっ通しで砂と格闘し続けた私たちの肉体は、とっくに限界を迎えていたのだ。

「……あははっ! 何これ、お腹すきすぎ!」

 彼女が腹を抱えて吹き出し、私もたまらず声を上げて笑った。先ほどまでの崇高な表現者としての狂気はどこへやら。そこにはただ、泥まみれで腹を空かせた五十代の男と十七歳の少女がいるだけだった。

「食事にするか」

「そうだね」

「この経験のお礼だ。ご馳走するよ」

「……でも、地元の定食屋なんかに入ったら、変なおじさん連れてるって一発で噂になっちゃう。コンビニにしよ」

 彼女の現実的な提案に従い、私たちは海水浴場の隅にある赤茶けた公衆水道へ向かった。

 氷のように冷たい真水で顔と手を無造作に洗い流す。爪の間には黒い砂が頑固に残ったままだが、気にならなかった。これは勲章であり、私たちの共作の証だったから。

 近くのコンビニで食料を買い込み、私たちは無人の防波堤にちょこんと並んで腰を下ろした。眼下には、先ほどまで死闘を繰り広げた灰色の海が広がっている。

 私たちの手の中にあるのは、直径十五センチはあろうかという巨大な豚まん、紙袋からジャンクな油の匂いを漂わせる唐揚げ、そして温かいお茶。

「いただきまーす」

 彼女が豚まんを真っ二つに割ると、分厚い生地の中から暴力的なまでの湯気と肉の匂いが立ち昇った。

「おしゃれなカフェのケーキじゃ、この泥だらけの体温は戻らない」

「確かにな」

 私たちはそれにかじり付いた。

 熱い。そして、濃い。

 冷え切った胃に、豚肉の脂と唐揚げの強烈な塩分が落ちていく。それは決してお洒落な食事ではないが、生命を直接丸呑みしているような、圧倒的な「生」のリアリティがあった。この上ないご馳走だった。

「……美味しい」

「労働のあとの報酬だな」

「うん」

   口の周りを少しテカらせながら、彼女がほうっと白い息を吐いた。海風に吹かれながら唐揚げを齧るその横顔は、やはりどこにでもいる年相応の少女に見える。

 だが、彼女が次に見せたのは、紛れもない表現者としての孤独な瞳だった。

「……私さ」

 彼女は半分残った豚まんを見つめながら、ぽつりとこぼした。

「キャンバスに、大人が喜ぶような嘘の線を引くの、やっぱり向いてないのかも。……今日みたいに、重たい泥をねて、自分の手で空間を作っていく方が、ずっと息がしやすい」

 それは、美大予備校という小さな水槽の中で窒息しかけていた彼女が見つけた、切実な自己発見だった。圧倒的な才能を持ちながらも、自分の居場所を見失って怯える十七歳のもろさ。

 私は最後の一口を飲み込み、お茶で油を流し込んでから、真っ直ぐに前を見たまま口を開いた。

「きみが作ったあの無骨な塔の配置は、空間を完璧に把握していたよ」

「え?」

「並の人間にはできないことを、十七歳の女子高生がやってのけたんだ」

 それは慰めではない。五十代の建築家としての純粋なプロの評価だった。

「迷っているのなら、思いっきり迷うといい」

「いいの? 学校も予備校も、早く進路を決めろってかしてくるんだよ」

「待たせればいい」

「でも……」

 珍しく弱気な、年相応の表情を見せた。

「おじさんとして言うよ。間違った進路にしがみついた人たちは、いつか後悔する。それは悲劇だよ」

 彼女がじっと私の横顔を見ているのを感じる。だが、私は前を向いたまま話を続けた。

「これはきみの進路だ。きみの人生だぞ。時間をかけて、悩んでいいんだ」

 きょとんとした表情の後、「うん」と彼女は頷いた。これまでで一番落ち着いた返事だった。

「もし、きみが自分の才能を発揮したくなったら……」

 私は足元に置いていた革鞄を引き寄せ、中から財布を取り出すと、一枚の紙切れを抜き出した。海風の湿気を吸って、端が少しよれた名刺だ。昨日までは呪いのように感じていた名前の羅列が、いまは確かな重量を持って私の指先にある。

「うちに来い」

 私はその名刺を彼女に差し出した。

「ただし、俺が舌を巻くくらい優秀な造形家になったら……な」

 彼女は目を丸くして名刺を見つめる。やがて、手を伸ばして私の名刺を掴んだ。

 名刺に書かれた私の名前と設計事務所の肩書きを指先でなぞる。

「……そっか。おじさん、こんな名前なんだ」

 彼女はふわりと笑うと、名刺を大切そうにワンピースのポケットの奥深くへとしまった。

 そして、私の顔を正面から見た。

「私、みなみ 菜那なな

 初めて明かされたその名前は、秋の波音によく似合う、透き通った響きを持っていた。

「私のLINEはね……」

 菜那がスマートフォンを取り出そうとした瞬間、私は空いた手で彼女の動きを静かに制した。

「必要ない」

「え?」

「きみが本当に困った時、あるいは、自分の力で立つ準備ができた時にだけ、その名刺の番号に連絡をくれ。私からは一切連絡しない」

 それは大人の男としてのたしなみ。と同時に、一人の表現者として彼女の未来を信じるという、私なりの敬意だった。

 驚いたように私を見つめていた菜那の瞳が、その言葉の意味を理解し、柔らかく細められた。その時彼女が浮かべた笑みを、私はいまも憶えている。

 十七歳の少女だけが持つ、淡くて柔らかで、とても眩しい。

 それはそんな笑みだった。

「……うん。わかった」

 防波堤から立ち上がった彼女の背中を、傾きかけた午後の陽射しが黄金色に縁取っていた。

 じゃあね、と短く手を振り、菜那は振り返ることなく自分の日常へと歩き出す。

 私は一人防波堤に残ったまま、彼女の小さな背中が見えなくなるまで、その真新しいキャンバスのような海を見つめていた。菜那は一度も振り返らなかった。

 潮風は冷たい。しかし私の心の中には、今日彼女と共に作り上げたあの砂の街が、いまも確かな熱を持って、静かに呼吸を続けていた。

 私は立ちあがり、彼女とは反対の方向に歩き出した。

 ザザーと、ひときわ大きな白波が崩れる。

 砕けた水は滑らかな軌跡を描き、砂の上に残った大聖堂の欠片を静かに海に還していった。



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