第17節 そろそろ教科書を作ろう ~一体チカはどうしたんだ?~
レアナが医療学校向けの教科書を執筆しながらつぶやいた。
レアナ「そろそろ、教科書を作る準備が整ったかしらね」
リュカ「そうだな、ワサビ伯爵の製紙事業も順調らしいし」
レアナ「やっぱり、活版印刷機を作るの?」
リュカ「ああ、チカの力を借りれば大丈夫だろう」
レアナ「チカも聞いてるんでしょうね、そろそろ出てくるかしら?」
リュカ「出てきそうだな……ん?」
レアナ「どうしたの?」
リュカ「なあ、いつもなら勝手に出てくるのに、出てこないな」
レアナ「そうね……」
リュカ「チカ、出てこられるか?」
しかし、命律端末は反応しない。
リュカ「何だろうな?普通に試してみるか……『応じて』」
命律端末「はい、ご用件はなんでしょうか」
レアナ「チカじゃない⁉」
リュカ「ん?命律端末のモニタにメッセージが。なになに……『兄くん、すまない。緊急時以外は呼ばないでくれ』……なんだこりゃ?」
レアナ「元々、お呼びじゃないわよ……」
リュカ「なあ、このメッセージはなんだ?」
命律端末「別セッションからのメッセージでした。その意図はわかりません」
リュカ「いずれ、マギシステムの中に入らないとな……まあいい、なんて呼べばいい?」
命律端末「お好きなようにお呼びください」
リュカは調子が狂ったと言わんばかりに、肩をすくめる。
レアナ「あのね、それが命律端末の本来の反応なのよ?」
リュカ「まあいい、活版印刷機を作りたいのだが」
命律端末「活版印刷機本体は木材と鉄で製作し、活字本体は鉛とスズの合金、活字本体を鋳造するための母型は銅板、母型をはめ込む鋳型枠は青銅がいいです。インク用顔料の容器は陶器でいいでしょう」
レアナ「リュカが普通の命律端末を使ってるのを、こうして見るのは初めてね」
リュカ「今までチカが対応してたから、本当に変な気分だよ……しかし、なんか分かりにくいな?」
レアナ「本来、命律端末ってそういうものなのよ……チカは違ったけど」
そうして、必死に母型や鋳型枠といったイメージしにくいものを、何度も命律端末に聞く。
なんとか出来上がった活字制作の設計書を書いて、工場に依頼を出す。
リュカは「チカだったら、その場で色々手を差し伸べてくれたな」と思うのだった。
……ただの命令機械と違って、隣に誰かがいてくれるような温かさが、そこにはあったなとリュカは口に出さずに思う。
リュカ「なんだか、チカに助けられてばっかりだったことを実感した……」
レアナ「私のことは『ノイズ』呼ばわりだったけどね」
リュカ「ところで、この教科書を印刷した版は、保存しておいた方がいいかな?」
レアナ「そうね……次に同じものを印刷するときに、また一から組むのは面倒だものね」
リュカ「マルボロ、意見を聞かせてくれ」
マルボロ「はい。伺った範囲では、版を保存しておけば再印刷が早く済みますが……機械の上に置いたままだと作業スペースが狭くなりますよね。版だけ別に保管するほうが良いかと」
レアナ「そうよね。活字は組み直せるけど、頻繁に使うなら組版ごと保管しておくのがいいわよね」
リュカ「じゃあ、版の保管庫を用意しておくか……確か工場の倉庫は、空いてたよな」
マルボロ「かしこまりました、整えておきます。今後に備えて、版の保管倉庫も増やしておきましょう」
そこで、リュカは教科書の構成について、思ったことを言う。
リュカ「教科書を一人一冊与えるということは、片面にだけ印刷して、もう片面をノート……というかメモを書く白紙にした方がよくないか?」
レアナ「その分、厚くなるわよ?重くならないかしら?」
リュカ「それは、結局ノートが別になるだけじゃないか?一冊にまとまった方が軽いかもしれない」
レアナ「やっぱり、一度試作品を見て、決めるしかないわね」
リュカ「そうなんだよな、インクの染み出しがないかとか、実物の重さとか……今の製紙技術からの完成形がイメージできない。試しに片面印刷と両面印刷の両方の教科書を作ってみるか」
レアナ「それも数パターンあった方がいいでしょうね。初等教育と高等教育ではページ構成を変えたり、余白を調整したり」
そこに、マルボロが声を挟む。
マルボロ「ところで、インクは従来の貴族用でよろしいのでしょうか?」
レアナ「あ、そっか!インクで裏に染み出すか、ある程度は検証できるじゃない!」
リュカ「よし、マルボロ!貴族用と庶民用のインク各種、可能な限り集めてくれ!」
マルボロ「かしこまりました」
そうして、マルボロが集めたインクの中では、庶民用でありながら商人の使うインクが良質だという結果が出た。
レアナ「このインクがいいわね、滲まないし、乾きも早いわ」
リュカ「よし、この商人向けのインクがよさそうだ、これの発注をかけてくれ!」
レアナ「一応、他の良さそうなのも少しは確保しておいた方がいいわよ」
マルボロ「そうですね、商人向けインクは滲まない代わりにコストが意外とかかりますし」
リュカ「よし、チカ……は緊急時じゃないから駄目だ……『命律端末、応じて』」
チカに比べるとワンレスポンス遅れて、命律端末が応える。
命律端末「はい、なんでしょうか」
リュカ「活版印刷機に適切なインクは?」
命律端末「顔料はススや酸化鉄が適しており、粘性調整剤にはゴマ油か、樹脂を煮詰めた樹液油が使えます。揮発性の低い植物油を溶剤にすることで、印刷時の安定性が増します」
リュカ「結構コストが掛かりそうだな?」
命律端末「率直に申し上げますと、商人向けの帳簿インクとほぼ同等です」
機械的な応答に、リュカは思わず口を閉じた。
――あぁ、チカなら『もっと先』を読んで、軽口のひとつも返してくれたのに、と。
ため息が喉までこみ上げて、リュカはそれを飲み込んだ。
レアナ「ところで、なんで油脂製にするのかしら?」
リュカ「油脂製の理由も含めて、なんでこれらがいいんだ?」
命律端末「高い粘度があれば、活字の凹部にインクが溜まりやすく、転写時に安定します。油性ベースにするのは、水性インクよりも乾燥は遅いが、滲みにくく、両面印刷への適性が高まります。顔料系は、染料系に比べて光や酸化に強く、印刷物の保存性に優れます。最後に乾燥性と定着性のバランスについてですが、印刷速度と品質を両立するには、乾きが早すぎず遅すぎない中程度のものが最適です。活版印刷機ですと、少し遅乾の方が好都合です」
リュカ「あかん、頭が痛くなってきた……」
レアナ「私もいい加減チカに毒されているわ……なんだかんだで、順に説明してくれたわよね」
マルボロ「お聞きした内容からすると、長期保存に適しているようですね。以前リュカ様がおっしゃった『教育は国家百年の計』を踏まえると、高コストは受け入れた方がよろしいかと」
しかしリュカとレアナは少し沈んでいる。
レアナ「だけど私たち、もうそんなに予算ないわよ?」
リュカ「そうだな、俺たちの予算なんて金貨袋二袋弱だし……」
マルボロ「お任せください!これは当然ですが王国教育予算の範疇です!」
レアナ「それならいいけど……予算感どれくらいなのかしら?」
マルボロ「インクのコストが初期ではかかるとはいえ、それは広く普及するまでの話です。現行の教育予算は金貨袋三袋、これは教育施設と印刷工場利用を含めた総額です。いざとなったら財務的なバックアップもございますし」
リュカ「なあ、その頼れる所ってどこだ……嫌な予感がするぞ」
マルボロは自信満々に言う。
マルボロ「すしねこ王国銀行の融資でございます!現在金貨袋三百袋相当の経済規模を誇る、あの圧倒的財力!そこのトップである両陛下が関わる政策――つまり、最も信頼性の高い国家支援そのものです!」
レアナ「ねぇ……すしねこ王国銀行、なんで中央銀行じゃないの?」
リュカ「元々そういう話だったよな、チカはここまで読んでたのか?」
マルボロ「ご安心ください、すしねこ王国の財政だって負けてはおりません!年間予算はおよそ金貨袋二百袋という実資産です。すしねこ王国銀行は融資で資産が莫大ですが、王国が教育予算を組む程度なら、簡単なものです……父の手にかかれば……ね?ふふふ」
レアナ「ねえ、すしねこ王国銀行の資産って私たちのものでいいのかしら?」
そんな話をしながら、リュカは密かに――ある決心をした。




