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  作者: 天神大河
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大詰め

 蠢く闇に包まれた大川の視界を、黄金の光が一瞬で埋め尽くす。身体中で湧き上がっていた不快感を感じなくなった大川は、恐る恐る瞼を開くと先刻までの記憶を少しずつ思い返していった。目の前に居た蠶人達は一匹も存在せず、自分の身体を攀じ登っていた蚕の幼虫も綺麗さっぱり消滅している。先程までの違いに気付いた大川が背後を振り返ると、其処には木山がこめかみに玉状の汗を浮かべたまま立っていた。

「大丈夫ですか、大川さんっ」

 木山の問い掛けに、大川は小さく頷いた。彼の言葉に引き摺られるように、大川は自分の右手で身体のあちこちに触れる。特に異常と思しき物は感じ取れない。だが口内に蚕の幼虫が入ってきた感覚は残っていた。その時の記憶が、大川の脳裏に鮮明に蘇る。

 大川は直ぐその場で自身の喉を押さえると、口内に貯まった唾と喉奥の吐瀉物とを全て吐き出した。全て吐き切った後、大きな空咳を幾度も繰り返す。それでもなお芋虫独特の冷たく柔らかい感触と、舌が覚えてしまった蚕の体液の味は、完全には消えなかった。

「何とか、大丈夫だ。すまなかった。つい、気が動転して」

 大川は苦し気に咳き込みながら、木山に向かって軽く頭を下げた。対する彼もまた、それに倣って軽くお辞儀を返す。やがて顔を起こした木山はさて、と一言呟くと、作業場全体に足音を響かせながら歩を進めた。自身の横を通り過ぎ、作業場の出入口へ向かう青年の姿を黙って見送りながら、大川はつと思い出したように尋ねる。

「ど、どうしたんだよ。木山さん。そんな、思い詰めたような顔をして」

 大川の言葉を聞き、木山は左手でシルクハットのつばを押さえる。彼はそのまま、大川へ向き直る事無く口を動かした。

「大川さんの娘さん、そして製糸所の皆さんを蠶人に変えた元凶。怪異の親玉を始末しに行くんですよ。非道極まりない行いを繰り返す怪異を、僕は決して許さない。皆さんの仇は、必ず取ります」

 少しずつ声を低めながら告げる木山を前に、大川は口内に貯まった生温い唾を飲み込んだ。鍬を握る手指に自然と力が入る。やがて大川の中に湧き上がった怒りの感情が、全身を仄かに赤く染めていく。

「木山さん、俺も行くぜ。此処まで来たらもう乗りかけた船だ。俺も、セツをこんな目に遭わせた化け物を絶対に許さねえ」

 例え数え切れない位八つ裂きにしても。昂奮した面持ちでそう口走る大川の姿を、木山はただ静かに見詰めていた。


―――――


 木山達が入り口と作業場の間を繋ぐ廊下へ舞い戻ると、其処では蚕の幼虫の群れが再び活発に動き回っていた。その光景を目にした木山は、無表情のまま粛々とそれ等を消し去る。蚕の幼虫に続いて現れた数匹の蠶人を前にしても、彼はまた同じように黄金の光を以て灰塵へと変えていった。日中に初めて会った時と異なり、まるで鬼神の如き振る舞いを見せる青年を前に、大川は半ば恐れに似た感情を抱きながらも、先の蠶人が現れた方角へと足を進める。丁字路を成す廊下の角を曲がり、時折現れる蚕達を二人で蹴散らしていくと、彼等の前に地下へと続く階段が現れた。地下から漂う腐臭を前に、木山と大川は思わず眉を顰める。

「どうやら、この下の様ですね。奴が隠れ潜んでいるのは」

 木山が誰に言うでもなく告げる。一瞬眉間の皺を深く寄せると、彼は照明の無い薄暗い階段を一段ずつ降りて行った。大川も木山に倣って少しずつ地下への階段を進む。つと背後を振り返ると、夜闇が完全に製糸所の中を支配していた。

「文字通り、黒い闇だな。さっきまで床や壁一面に白い蟲共がうじゃうじゃ動き回っていたというのに。いざそれが無くなってみると、却って不気味だ」

 大川がぽつりと呟く。徐々に視界が闇に慣れて来たとはいえ、完全に光を遮断された空間へと足を踏み入れるのだ。何時、何処から敵襲があるかも分からない。そんな彼の心の不安を察したのか、木山が微かに砂利を踏み鳴らしつつ応じる。

「何言ってるんです、大川さん。上に居た蠶人は、僕達二人で一匹残らず斃したじゃないですか。あそこで蠶人の殆ど、或いは全員を始末した筈です。後はもう、鬼が出るか蛇が出るか。と言っても、連中が出て来た所で同じ作業を繰り返すだけですが」

 へ、へぇ。そう返す大川の額から、僅かに脂を含んだ冷たい汗が流れ出す。一度流れ出したそれは堰を切ったように次々と流れ出し、忽ち大川自身の顔全体をしとどに濡らした。

「ああ、そう言えば木山さんよ。お前さん、確かこの製糸所に知人が居るんだったな。そいつは」

「もう終わった事です。今蒸し返した所で、最早何の意味もありません」

 もう終わった事。木山が抑揚の無い声で口走った言葉の真意を悟った瞬間、大川は心の内で悪寒を感じた。つい今まで自分達は蠶人を大勢殺したが、彼等は元はと言えば製糸所に勤めていた人間だ。その中にはセツが含まれ、そして恐らくは。それなのに木山は何故、そこまで平然として居られるんだ。

 大川の中で芽生えた不安が渦を巻くより先に、木山達は大きな両開きの扉の前に辿り着いた。木山は、一切の躊躇を見せないまま木製の扉を精一杯こじ開けていく。すると、扉の裏や床の隙間から大小様々な白い蚕の幼虫が次々に現れた。大川がひい、と悲鳴を上げる間もなく辺りを眩い黄金の閃光が巡る。思わず瞼を閉じた大川が再びゆっくりと開いてみると、扉は完全に開かれていた。その中に広がる大部屋には、作業場と同じく床に大量の桑が散乱し、床や壁一面に蚕の幼虫が数多く蠢いていた。唯一作業場と違ったのは、壁の四方に巨大な蔟が組み込まれており、細分化された部屋のあちこちに白い繭が多数存在していた事だ。蔟の部屋では、自身が安全に蛹となる揺り籠を作る為に繭糸を吐き出す者、既に繭を完成させ中で蛹となった者とが半々に分かれていた。大川が肌を青白くさせながら両目を忙しなく動かすのに対し、木山は大部屋全体を一瞥した後小声で呟く。

「怪異の親玉の間の癖して、蠶人は誰も居ないのか。所詮お前達は、人間を自らが寄生する為の依代としか思ってないという事か。畜生共が」

 やがて、木山は黄金に光輝く右腕で颯爽と空を切る。横一文字に広がる眩い光を前に、蚕の幼虫や繭は呆気なく一掃された。

 刹那、蚕の幼虫で覆い隠されていたそれが姿を現した。全身を白い毛で覆い、高さにして数メートルはあろう巨体を誇るそれは、壁一面に広げるにも足らない大きさの翅をゆっくりと羽ばたかせた。その姿はまさしく蚕蛾その物だ。だが自分が知っている蚕蛾よりも遥かに巨大な体躯を前に、大川は二の句が継げずにいた。

「成る程。お前が蚕や蠶人を操っていた怪異の親玉、さしずめ大蠶(おおかいこ)か」

 大蠶と呼ばれた蚕の成虫は、自らの翅から生み出す風を木山へ向けて黙々と羽ばたかせ続けていた。仄かに熱を纏った凄まじい突風が吹くのを前に、大川は思わず瞼を細める。そんな彼の前に立ち、大蠶の翅から吹き荒ぶ風の直撃を受けた木山は、少しも怯む様子を見せずに眼前の怪異へと歩み寄った。

「大蠶。お前が罪無き人間を次々に怪異と成した理由は、正直僕に取ってどうでも良い。どんな言い訳を聞こうが、お前を殺す事に変わりは無いからな。あと、その醜い翅で毒の鱗粉を幾ら振り撒いても無駄だ。そんな物、僕には効かない」

 木山と大蠶の距離が徐々に縮まる。大蠶は至大な翅を相変わらず前後左右に動かしていた。木山の瞳が大蠶の身体を見据える。彼の右手の黄金の輝きは衰えないままだ。

 そして、木山は遂に大蠶の真前に立った。直ぐ前に居る青年を前に、大蠶は脚と翅を震わせて抵抗するも、一瞬だけ放たれた閃光を受けそれ等は全て塵と消えた。脚と翅を失い、最早何の用も成さない胴体のみを残した大蠶が鋭い金切り声を上げる。耳を劈く様なそれを前に、大川は思わず両手で耳を塞ぐ。だが木山は無表情でその場に立ったまま、大蠶が冷たい床に倒れ行くのを静観していた。仰向けになった怪異の巨体を前に、木山は静かに片膝を着ける。大蠶は甲高い呻き声を上げながら、巨大な身体をあちこちへくねらせていた。

「虫の息、とは正にこの事だな。お前によく似合った最期だ。尤も、僕も貴様が何時までも姥貝ているのを見ている暇は無い。最期は楽に逝ける様にしてやるよ。だが、その前に」

 そこまで口にした所で、木山は右手を大蠶の身体へと持って行く。すると、彼の手は巨大な蟲の体表に有る白い毛を乱雑に毟り、それを大蠶の血肉ごと剥ぎ取った。大蠶が甲高い声で鳴くのも構わず、木山は黄金に光る右手を灰色に染めながら、大蠶の身体から微かに脈打つ黒色の臓器を掴み取った。

 あれは多分大蠶の心臓だ。そう直感した大川は遠目からその様子を窺う。何をしているんだ、あいつは。心の中で思うも束の間、木山は大蠶の心蔵を前に自らの顔を近づける。

「お前の異能の力、全て頂く」

 そして、木山は大蠶の心臓を口へと運んだ。喰う。食べる。食む。彼の歯が黒い臓器を噛み千切っていく度に、大蠶の断末魔の悲鳴が部屋中に響く。大川は、眼前で繰り広げられる光景を前に手に持った鍬を落とし、手足を震わせた。青年の右手から放たれる黄金の光はより美しく、妖しく輝く。時に激しく、時に穏やかに大蠶の心臓を食らい、血で汚れた唇を舌で舐め取っていく木山は、歪に嗤っていた様に見えた。

 そうして、どれ程の時が経ったのか。大蠶の心臓を全て食い尽くした木山が、眼下に転がる大蠶の屍体を一瞥する。灰色の液体で汚れた口元を右手で粗暴に拭うと、そのまま大蠶の骸を黄金の光の中へと沈めていった。一通り終えた所で、木山は後方に居た大川へと向き直る。大川は身体を硬直させながら、木山の顔を見詰める。彼の表情には、先程の行為が無かったかのように穏やかな笑みが浮かんでいた。

「全て終わりましたよ、大川さん」

 言いながら、木山は両手を広げて大川へと歩み寄る。対する大川は小さく歯を鳴らしつつも、足が思うように動かなかった。そんな男の姿を前に、木山は雄弁に語る。

「僕達はやったんです。この中村製糸所に巣食う怪異を全て亡ぼしました。娘さんの事は残念でした。仇討を成し遂げた事で、娘さんもきっと成仏なさるでしょう」

 徐々に近づいてくる青年を前に、大川は幾度も息を呑む。落ち着け、落ち着くんだ。あいつは自分の娘の仇を討ってくれた男だぞ。心の内で何度もそう言い聞かせながら、大川は青白い唇をどうにか動かした。

「き、木山さん。あんたは、一体。何者なんだ」

 大川の問い掛けに、木山は彼が落とした鍬を手に持つと朗らかな口調で応じた。

「僕は、ただの衆議院議員ですよ。それと同時に、この大日本帝国の平和を願う国民の一人です」

 昼間と変わらない調子で答える木山を前に、大川は大きく溜息を吐いた。目元まで掛かってきた冷たい汗を袖口で拭き取ると、彼もまた落ち着いた態度で告げる。

「そう言う事なら、まあいいさ。それにしても、今日は散々だったぜ。気味悪い蚕の化け物が出て来たり、セツがその化け物になってたり」

 大川の言葉を受け、木山は思わず瞬きを数度繰り返す。この度は申し訳ありませんでした。一息にそう言って、奥歯を軽く食い縛りながら木山が頭を下げる。そんな彼を前に、大川は木山の左肩を軽く小突いた。アイタッ。小さく悲鳴を上げて、木山は左肩を両手で押さえる。

「今回の件はあんたのせいじゃないんだ、謝る事無いさ。それにしても、世の中訳が分からねエ事ばッかりだ。尤も、そいつは木山さんも同じだが。けどあんたの御陰か、何かこう、胸が空く思いがしたぜ。肩の荷が下りた、と言うか。それはともかく、俺はこれからセツを葬う準備と、村の皆へ事の詳細を知らせニャならん。なア木山さん、これからちょっと俺の家に飲みに来ねエか。あんたに礼も言いたいし、嫌な事を忘れる為に今晩だけでも付き合ってくれ、ナッ」

 そう言って、大川は木山へと背を向ける。彼が歩き出そうとしたその瞬間だった。

 鈍い音が辺りに響く。それと同時に、大川の背に鋭い痛みが走った。

 その場に崩れ落ちる刹那、大川は背後を振り返った。そこには、鍬を両手に構えた木山が立っていた。

「キ、木山。お、おマえ。お前はッ」

 床に倒れ込むと共に、大川が悲鳴混じりに叫ぶ。闇の中、鍬の冷たい刃先だけが彼の視界に入る。そして、悲痛な呻き声を漏らす眼下の男の白い頸目掛けて、木山は鍬を振り下ろした。

 胴体から切り離された大川の頭が、灰色の血を流しながら床を転がっていく。首を失い、軟らかい肉塊と化した大川の屍体は、全身を薄らと白く染め上げていた。

 これで最後に残った蠶人を始末した。心の内で確信する木山の額からは幾筋もの汗が流れ、短く荒い呼吸を何度も繰り返す。僕は何処で間違えてしまったのか。肩で息をしたまま、木山はぼんやりと考える。

 全てはあの時。大川を一人だけ、蠶人達の前へ行かせなければ。蚕の群れが彼の身体を覆い尽くす前に、自分が始末していれば。大川が口に入り込んだ野蚕を食らい、その血を飲む前に何とか出来ていれば。眼前の蠶人、一人の男の運命は異なっていた筈だ。そう思えば思う程、木山の心に己の無力と強い後悔の念とが湧き上がる。

 木山はその場に立ち尽くしたまま、空を見上げる。辺りを覆い尽くした暗闇の中で、彼は一言だけ、誰に向ける訳でもなく淡々と口にした。

「誰も、居ない」

 静寂の中吸い込んだ夏の空気は熱く湿っており、そして空虚だった。

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