第9話:走り出す感情と、追いつけない俺
文字通り「お祭り騒ぎ」の文化祭が終わり、日常が戻ってきた。
校内の掲示板に貼ってあった文化祭のポスターは、来月開催される地区の陸上競技大会のポスターに貼り替えられていた。
その陸上競技大会には、陽菜が三段跳びで出場するので、ポスターの近くには「ガンバレ神栖陽菜さん(1-B)」と書かれた短冊も貼られている。
俺はといえば、文化祭で中断していた筆ペン絵の制作も再開した。
描きためた風景や文化祭のスケッチから描き起こした作品は、いくつかイラストサイトの「残響画廊」にアップすることができそうだ。
やっぱり、自分のペースで制作と投稿して作品を発表できるのは、俺としてはありがたい。
絵画教室もそうだ。
文化祭の最中につくばさんが渡してくれた日立先生からの課題にしても、目安の締め切りはあるけど、厳守ではなくて、俺たち教室の生徒に合わせて、先生は気長に待っていてくれる。
俺の性格なのか、どうも誰かから何か押し付けられるのを避けたがるみたいだ。
こと、絵に関しては、これが露骨だ。美術部をすぐ辞めたのは、このことが大きい。
締め切りやテーマを強要されてしまうと、筆が進まない、むしろ「止まって」しまうので、作品ができなくなってしまう。
だから、学校生活のかたわら、自分のペースで進めるのが、制作の効率もクオリティも良いと思っている。
絵については、順調だけど、俺の日常生活、特に最近に限ってはやはりどこかおかしかった。
教室の自席でボンヤリしていると、隣の席の女子たちが時々、俺の方をチラチラ見ては顔を赤くし、小声でヒソヒソ話をしている。
目立ちたくない俺としては、この女子たちの態度が気になる。だからといって、直接聞くわけにもいかない。
俺の制服に何か変なものでも付いているのかと思い確認してみるが、別に何もついていない。毎日風呂に入っているから、臭うわけでもなさそうだ。
何かやらかしたのだろうか? いろいろ考えるが、思い当たることがない。
唯一こんなことを聞けるといえば、幼馴染の神栖陽菜だが、今はむしろ彼女の方がおかしい。
大会前のプレッシャーなのか、俺といっしょにいると、声はいつもとおりの元気なトーンだが、その顔はどことなく強張っていることが増えた。
そして、ときどき俺と顔を見合わせたりすると、彼女の心臓がドクンドクンと脈打つ音が、そばにいる俺にも聞こえてきそうなこともあった。
ある時、額に明らかに練習の汗とは違う、妙な汗がにじんでいる陽菜に言った。
「陽菜、大丈夫か?なんか、顔が真っ赤だぞ? 汗ばんでいるし……」
「だ、大丈夫!うん、大丈夫だよ!でもね、灯くん……なんか最近、体調が変なんだ」
「え? 何かの病気なのか?」
ううん、と首を振った陽菜は、少し潤んだ瞳で俺を見つめた。その表情は、今までの「練習不足だ!」と笑い飛ばす陽菜とは違って、真剣に戸惑っているように見えた。
消え入りそうな声で、陸上部の次期エースは、ポツポツと言ったのだ。
「ときどき体が熱くなったり、心臓がバクバクしたり、止まらなくなっちゃうの。でも、陸上部の練習メニューは完璧にこなしてるし、むしろ調子はいいくらいなのに……。記録も思ったように出ないし……。変だよね、私」
素人ながら、俺には陽菜が練習のしすぎ、つまりオーバーワークなんじゃないかと感じた。周囲の期待が知らないうちに重荷になって、彼女を苦しめているんじゃないか、とも思う。
なにしろ、大会ポスターの近くに自分の名前が書かれた短冊が、デカデカと貼ってあるのだ。目立ちたくない俺ならとっくに逃げ出すだろう。
さらに、こんなこともあり、俺はなんだかな、と思った。
校内の掲示板には、過去大会の出場選手たちの写真が使われた公式ポスターの他に、出場選手に向けて有志が作った、応援ポスターもあった。
他の出場選手もいる中で、陽菜がダントツに多かった。
陸上部や生徒会が応援ポスターを作るのはわかるが、写真部や美術部まで作っているのはどういうことだろう。
しかも、この写真部や美術部のポスターが、いずれも陽菜の太ももを強調しているかのような構図なのだ。
たぶん、文化祭のアスリートメイド姿が影響しているのは間違いない。
思い出してみると、ツーショットを要求した生徒にどちらかの部に所属していそうなヤツらがいた。
ポスターを作った、美術部の遠藤先輩もツーショット要求に群がっていた一人だ。
俺が美術部を辞めた原因の一つが、この先輩だったので、顔も名前も覚えている。
入部したばかりの時に課題で描いた静物の油絵が、顧問の織田先生に気に入られて美術室に飾ってもらうことになったが、それが気に食わなかったらしい。
技法がどうだ、絵の取り組み方とはどうだ、やたらにいちゃもんつけてきて、俺の描き方は邪道だとかまで言う始末だ。自分のペースで制作できないし、うるさいコイツの相手もゴメンだ、と思い、織田先生には申し訳ないけど、さっさと退部させてもらった。
あんなに偉そうに美術論を語っていた遠藤先輩だけど、結局、陽菜の太ももが気になっていたのだ。
美術部以外の人が見てもわからないけど、俺たちのような絵を描いている人間ならすぐにわかる構図だったからだ。
こんな風に、たくさんの純粋な気持ちやよこしまな気持ちの応援が混ぜこぜになって、陽菜にのしかかっていった。
これでプレッシャーがかからない方がおかしい。これで平然としていられるなら、その人はメンタルが鋼か何かでできているのだろう。
その証拠というべきか、大会が近づいてくると、陽菜は、なぜか俺を避けているかのように振る舞うのだった。
登下校も、学校内でも、俺が近づくと、一瞬にして顔を赤くし、胸を押さえ、すごい勢いで走り去ってしまう。
休み時間に用があって話しかけた時なんか、
「わ、わ、わ、わ、わ、私は……っ!逃げなきゃ!」
と教室を飛び出して行ったこともあった。
そこまでしなくても……と少し寂しかったけど、大会で幼馴染みには情けない姿をみせたくないのだろう。中学生のときの大失敗からの復活を間近でみていたから、余計そう感じる。
俺たちの期待に応えるために、きっと集中したいのだろう。俺はただただ陽菜のストイックさに感心するばかりだった。
しかし、である。
いくらなんでも、頑張りすぎではないだろうか。
休み時間も放課後も、自分の胸をさすりながら、一人で黙々と校庭をダッシュしている陽菜を見ながら、後夜祭で感じた不安はますます膨らんでいった。
【担当:岩瀬鈴江(図書委員)】
「ふふ……誉田くん。あなたが美術室に残したあの絵、そして匿名で解放しているその『情念』……。 私の推論が正しければ、あなたは『孤高の天才』の苦悩を抱えているはずです。 さあ、図書室の奥へいらっしゃい。 誰にも邪魔されないこの場所で、あなたの魂を、論理的に解剖してさしあげますわ。 え? 帰りたがっている? だまらっしゃい! 静粛になさい! 私の仮説が実証されるその瞬間まで、あなたを帰すわけにはいきません!」
次回、第10話「それぞれの日常と、見えない壁」。 私の鼻血は、真理への代償です。




