第80話:情念の画家、あるいはドンからの依頼
ため息が思わず漏れる。
久しぶりの絵画教室のレッスン。
夕暮れ時の公民館の会議室でデッサンだ。
さっぱり鉛筆が走らない。
おおよその形をとらえた線を描いたまま、動くはずの手が動かない。
俺は、目の前に置かれたヴィーナス像の白い肩をぼんやりと見つめたまま、右手の鉛筆を止めていた。
『さあ、私をしっかり描いてちょうだい』
と言いたげなたたずまいだ。
なんとなくその面影が、横丁のベンチにいた赤いピエロに重なる。
もう、あのベンチは提供していたハンバーガーチェーンのどこかの店舗に返却されているはずだ。
アイツ、今ごろ元気でやっているかな。
俺の妄想でしかないが、みるたびにあのピエロは何かを俺に語りかけているように見えた。
陽菜からデートに誘われたとき、はやし立てているように見えた。
お客さんと写真に収まっているときは、ドヤ顔に見えた。
デートの時は、陽菜の隣で『彼女の事は任せておけ』と送り出してくれたように見えた。
「むうっ、うまくいかん!
なんでこう、目尻のシワの一本……
たった一本の線がが上手く引けんのかねぇ」
嘆きのボヤキが聞こえる。
塩浜さんであった。
横丁の最終日の慰労パーティーで見せた、茨城のドンというような、威圧感溢れる面影はない。
今は一人の「デッサンが苦手なおじいちゃん」として、ワイシャツの袖を捲り上げて画用紙と格闘している。
ちょっと覗き見ると、頭を振りながら、練り消しゴムで消している画用紙は、毛羽立ち、黒ずんでいる。
何度も描いては消さないと、こうはならない。
何度かこの像を描いているはずだけど、どうしたのだろう。
「こうじゃない……こうじゃないんだ……」
いつもの陽気で穏やかな塩浜さんじゃない。
大野のおばあちゃんが「まあまあ、根を詰めすぎですよ」と、穏やかな微笑みを浮かべながら彼をなだめる。
しかし、元県議会議員のおじいちゃんは、石膏像そのものではなく、ビーナスの優しい表情を下敷きに、自分の脳裏にある「何か」を描きだそうとしていた。
「塩浜さん……画用紙変えましょうか」
描いては消し、という様子が気になったのだろう、今日はレッスン生として参加しているつくばさんが、歩み寄って声をかける。
俺は知っている。
彼女が作品制作で調子が上がらない時、モチベーションを上げるためにレッスンに参加することを。
横丁の仕事が終わった疲れもあるのだろうか、これから課題に取り組むという美大生は、少し疲れているように見えた。
レッスン中にインスピレーションが湧いて、ブツブツと歩き回る「つくばの念仏」も、ここ最近は全く見れなくなってしまった。
「ああ……すまないね」
我に返った塩浜さんが、つくばさんに振り返って、ふっと笑う。
「灯くん……手が止まっているぞ」
巡回していた日立先生が、俺の肩を叩く。
そうだ、ぼんやりしている場合じゃなかった。
気を取り直して、小さな鉛筆削りでガリガリと鉛筆を削ると、削りたての木の香りが漂う。
それはあまりに清潔すぎて、俺にとっては、不安と心細さが深まる感覚に陥った。
つい数日前まで、俺の指先には塗料がこびりついていたはずだ。
ウエスでどれだけ拭い去っても消えなかった溶剤の、鼻を突くような刺激臭。
スプレーガンで塗りつけた塗料の臭い。
内覧会前日の塗り漏れをリカバリーしたコーヒー塗料の濃厚すぎる香り。
ごちゃごちゃと混ざり合った、「現場の活きた街の匂い」が、今はもうどこにもない。
あの横丁で、銀さんと一緒に、わざと煤けさせ、錆を浮かせ、数十年分の「嘘の歴史」を刻み込んだ看板や壁。
きっと、解体工事もだいたい終わり、倉庫に戻っているはずだ。
今ごろその看板や壁は、ただの産業廃棄物として処理されているのだろう。
うーん、と伸びをしてみる。
制服の袖についたボタンがカチンと鳴った。
もう、ペンキ屋の衣装を着ることもない。
ごく普通のモブ高校生に戻ったことを実感する。
当たり前だが、日常に戻った学校生活は、拍子抜けするほど淡々と過ぎていく。
だが、俺の感覚は、まだあの「昭和ノスタルジー横丁」の夕焼けの街に置き去りにされたままだった。
教室の外の空が塗装したように見えたことがあった。
夕方の時はなおさら横丁の空に見えてしまう。
街中では、建物の経年劣化の様子をじっと見るクセが直らない。
放課後など、考え事をして自転車を走らせていて、気がついたらモールの駐輪場にいて、自分自身に驚いたこともあった。
それなのに、グランドフィナーレ前に、作業の隙間を縫ってスケッチした横丁の風景はスケッチのまま、作品にはなっていない。
横丁の仕事が終わったあと、すぐにでもイラストサイト「残響画廊」に作品を上げるつもりだったし、そう思っていた。
しかし。
いざ描こうとしても、家で白い画用紙に向き合ったままなのは、教室と同じだった。
肩をぐるぐると回したあと、ため息をつきながら再び画用紙に向き合う。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
鼻を突く溶剤の匂いも、耳にこびりついた解体音も、もうどこにもない。
真っ白な画用紙を前に、俺の筆は迷子になっていた。
「現場」を失い、ただのモブ高校生に戻ってしまった俺 。
だけど、あの「ドン」だけは、俺の中に眠る何かを見逃してはくれなかった。
次回、第81話『跳躍する少女、沈み込む僕』 陽菜は空を跳び、俺は泥の中へ。……そして、運命の依頼が動き出す 。




