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【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第四章:黄昏の職人と、捏造された昭和

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第76話:真っ白な嘘と、職人の意地

耳や顔などの上半分は、除幕式と同じようにテカテカとしているのに、胴体から下は、昨日と同じように、黒ずんだ汚れ塗装があちこちに残っている。

そして、ところどころ拭き取りきれなかった溶剤が、涙のように垂れて白く濁っている。


まるで、厚化粧が崩れてしまったピエロみたいだ。


除幕式の会場のベンチにいた、あの赤い髪のピエロを思い出す。

アイツも今頃は、どこかのハンバーガーショップの店先に戻っているのだろう。


作業中なのは明らかだった。

足元には、シンナーの一斗缶やウエスが散乱し、独特の刺激臭が充満している。


「おう、来たか。灯……お疲れさん」


招き猫の陰に隠れるように置かれたパイプ椅子。

そこで柊珈琲店のタンブラーを傾けていた銀さんが、俺に気づいてのっそりと立ち上がった。


「銀さん、これ……」


ベテラン職人は、うーん、と伸びをして肩をゆっくり回した。


「デカいだろ? こいつをここに入れるだけで、工事のヤツらと一悶着あったんだ」


銀さんと招き猫を見上げる。

作業場の照明と落としかけの汚れ塗装でなんだか不気味なたたずまいだ。


「さすがにな、いくら日立が許可しても、俺たちが勝手に塗装しちまったからな……」


銀さんはニヤリと笑うと、足元の一斗缶を爪先で小突いた。


「汚したまま返すわけにはいかねぇ。

元に戻せて、なおかつ客が触っても落ちないように、エナメル塗料で汚してある。

……横丁にあわなくても、大学の連中が作った大事な『作品』だしな」


「……だから、溶剤で落とすんですか」


俺は床に散らばる汚れたウエスを見下ろした。

せっかく「横丁の住人」にするために、俺たちがこだわって施した「時間(汚れ)」。

それを、自分たちの手で消す。


仕方ないとはいえ、何とも言えない気持ちになる。


「そうだ。ただしな、溶剤で落とすとどうしても表面が曇っちまう。

それに……」


銀さんはウエスを拾い上げ、招き猫のピカピカな顔を見上げた。


「そもそも、どういう企画かわかっているくせに、あんなツルツルのもんを『レトロな街』に堂々と持ってきたのがしゃくだぜ……」


招き猫のずんぐりとしたお腹を銀さんがノックするようにたたく。

言われてみれば、よくも堂々と真新しい状態で持ってきたものだ。

横丁を一目見れば、合わないことはわかりそうなものなのに。


「……だからよ、もっとピッカピカに磨き上げて、大学に帰してやるのさ」


「……え?」


「どうせ、キャンパスに飾るんだ。

曇りひとつないピカピカの方がご利益がありそうだろ?

意趣返しじゃねぇが、プロの仕上げってヤツを見せてやろうぜ」


いたずらっ子のような目で笑う銀さん。

その言葉に、俺の中の寂しさが少しだけ紛れた気がした。

後片付けで終わるわけじゃない。


最後に「仕上げる」仕事が残っていた。


「わかりました。……でも、その前に」


俺は招き猫を見上げた。


「……汚し塗装を消す前に、どうなっているか、近くで見てもいいですか?」


「気を付けろよ」


銀さんはガッチリと脚立を支えてくれた。

俺は一段、また一段と踏みしめて脚立を登る。


ギシッ、ギシッ。


ようやく招き猫の目線と同じ高さになる。

磨きあげた招き猫のほっぺたに、うっすらと引きつった顔の俺が映る。

銀さんが仕上げた「鏡のような光沢」であった。


ふと、視線を下に向ける。

膝が笑っているのがイヤでもわかる。

たかだか俺の背丈の倍くらいの高さなのに、不安定な脚立が揺れるたびにねっとりとした汗が噴き出る。


「よく、こんなことを……」


ふと見ると、脚立を握りしめすぎて、指が白くなっていた。

足がすくんで、これ以上いけそうにない。


「……やっぱり、いいです。

自分の手が届く範囲をやります」


すごすごと脚立を降りる俺に、銀さんは柔らかく笑い、自分専用のネル布(磨き布)を持って、ひょいひょいと脚立を登っていった。


一ヶ月やそこらでは、大人しく下を担当したほうが無難だ。

最後の最後で事故ってはお話にもならない。


「俺が学校にいる間、たった独りでこれを……!」


脚立に脚をかけながら、ツヤ出しのコンパウンド材をネル布に付ける銀さんを見上げてため息をつく。

俺の将来の事を考えて、たった一人で、この巨大な猫の「横丁での表情」を作り、そして今、半分をたった一人で消してくれたのだった。


そんな銀さんは、鼻歌まじりで白い猫の顔を丁寧に磨いている。


誰にも頼らず、文句も言わず、そして少し遊び心を持って……。

俺が社会に出たら、あんな風に仕事ができるだろうか?


昨日の慰労パーティーで見た、銀さんの最初で最後のスーツ姿が重なる。

スーツ姿もなかなか渋かったけど、やっぱり銀さんは作業着が似合う。


「さて……」


マスクとゴーグルを着けた俺は、新しいウエスに溶剤を染み込ませた。


ツンとした刺激臭が鼻を突く。


最後まで、この臭いは慣れなかったな。


招き猫のボテッとしたお腹にウエスを押し当て、まだら汚れを拭き取っていく。


脚立の軋む音。

俺たちが招き猫を拭き、磨く音。

そして、遠くに聞こえる解体工事の音。


ドガガという工事の音と、昨晩のパーティーで聞いた銀さんの豪快なガハハという笑い声とちょっと似ていて、思わずニヤけてしまう。

それにしても、横丁が閉まったのが昨日のことなのに、まるで何日も前のことのように思えるのはなぜだろう?

【担当:神栖陽菜(横丁の看板娘/陸上部)】

「お疲れさま」の一言が、昨日はあんなに遠かった。

ねえ、ともくん。

華やかなパーティーも、美味しい料理も、大人たちの社交辞令も…… 今の私には、溶剤の匂いがする作業場の方が、ずっと落ち着く気がするんだ。

看板娘の笑顔を脱ぎ捨てた、本当の私。

あの日、あなたが気付いてくれた「疲れ」の正体を、まだ誰も知らない。

次回、第77話『仮面の看板娘と、醒めた僕』 ……ねえ。私は、ちゃんと「看板娘」になれてたかな?


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