第66話:四畳半のストックルーム、湿度は120%
「すみません、典子先輩……
ムリ言ってしまって」
靴を脱いで上がり込む俺に、若妻はゆっくり首を振った。
お店の繁盛ぶりに少し疲れたのか、エプロンの紐を少し緩め、額に張り付いた髪を直そうともせず、ちょこんと座っている。
「慎一くんと楽しく仕事しているけど、思ったより忙しくてね……
ちょうど一息入れたかったの。
逆に助かったわ。ありがとうね」
若妻が静かに笑みを浮かべる。
店先で振りまいている笑顔と異質な笑顔。
少し、『とろみのある笑顔』と言うべきか。
「本当は冷えたのがいいんだろうけど、ストックしかないわよ。
……それでもいい?」
つい、と立ち上がり、ラムネの入った段ボール箱を開ける典子先輩に応える。
「はい……構いません……ふ、二つください」
そう言いながら、お金を出そうとポケットをまさぐる俺に、典子先輩はねっとりとした声でいう。
「二つ?……あら、誰かといっしょ?
……もしかして、陽菜ちゃん?」
段ボール箱からラムネを取り出した若妻は、湿った声で直球の質問をぶつけてくる。
「え……知ってたんですか?」
絡め取るような視線を向けた若妻が、クスクス笑う。
この人が1学年しか変わらないのが、未だに信じられない。
「何日か前に、陽菜ちゃんから相談されたんだもの。
誰とは言わなかったけど……。
『いっしょに横丁にお出かけするから、どんなお洋服が良いかな』って」
典子先輩の瞳は、すでにとろりと潤みきっている。
これは、もしかして。
「陽菜ちゃん、ちょっとうらやましいな……
誉田くん……少し、時間……
ちょうだい?」
「の、典子先輩……?
奥さん?
顔色が……」
薄暗い照明でも、典子先輩の顔が朱く火照っているのがわかる。
身体をピクピクと震わせながら、俺ににじり寄ってきた。
靴を脱いであがりこんだのは失敗だったかもしれない。
「いや、マズイですよ!
……だいいち、典子先輩には、旦那様……
じゃなかった、田辺先輩がいるじゃないですか」
腰を浮かしかけた俺に、ラムネを持ちながら迫る典子先輩。
「私だってわからない……
慎一くんも大切だけど、誉田くんの近くいると、どうしても欲しくなっちゃうの……」
彼女の手からラムネの瓶が滑り落ち、古い畳の上に鈍い音を立てて転がった。
「だ、め……。
誉田くん、その、匂い……。
私、……おかしくなっちゃう……」
典子先輩の身体が、重力に逆らえないように俺の方へと倒れ込んできた。
俺は慌ててその肩を支えるが、倒れかかった勢いに耐えきれない。
「わわわっ!」
若妻はくるりと回って、俺の腕の中に落ちてきた。
ちょうどバックハグのように抱きとめる。
「あぅぅぅっ!……あはぁ///」
まるで、電気が流れたように身体が跳ねる。
割烹着とブラウスの衣装越しに伝わる、熟れた果実のような、圧倒的な「女体」の熱量。
「典子先輩、落ち着いて……!
マズイですよっ」
薄暗い照明に鈍く光る、汗ばんだうなじ。
「お願い、……少しだけ……このままで……
でも、いけないわ……今すぐ、逃げて……!」
矛盾した言葉と裏腹に、重ねた彼女の指先が、俺の手首に絡みつく。
身体をビクビクと震わせ、振り向きながら、俺の首筋に顔を埋める典子先輩。
彼女の荒く湿った吐息が、俺の皮膚をねっとりと撫で回す。
その時、ストックスペースとお店を隔てるふすまの向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「いらっしゃい! くじ引きは順番だぞー!
ほら、当たりだ、おめでとう!』
田辺先輩の、明るく、真っ直ぐな声が聞こえてくる。
すぐそこに、彼女の未来の夫がいる。
きっと数年後に訪れるであろう、幸せな家庭の、真っ当な日常が、そこにある。
「あぅぅっ///……んんっ……! だ……だめ。
……あっちに、主人が……。
誉田くん、このままじゃ、私……
慎一くんを、裏切っちゃう……!」
典子先輩は、俺の首筋に顔を押し当てたまま、悲鳴のような喘ぎ声を上げた。
「お、奥様っ!わかっているなら、どうして……」
彼女の手がエプロンの紐に、吸い寄せられるように伸びていく。
「わ、私だって……わからないの……ああ///……
誉田くん、私を止めて……」
理性と本能。
日常と背徳。
その狭間で、彼女の身体は今にも壊れそうなほどに震えていた。
若妻の背中から伝わる燃えるような体温と、むせるような甘い熟した匂い。
ぷちゅり。
「ううっ!?」
欲望に耐えきれなかったのか、典子先輩の唇と唾液が俺の喉元に押し当てられた。
「ごめんなさい……
キス……
しちゃった」
「や、やめてください……
俺だって……
陽菜を裏切りたくないです……!」
ピエロのベンチで手を振って送り出した陽菜が頭をよぎる。
身体を離そうと位置をずらすが、ムダに終わった。
それどころか、若妻は身体を預けたまま、むずがゆそうに身じろきをするのだった。
典子先輩が身体を揺するたび、甘く熟した香りが漂う。
そして、典子先輩からたっぷりと湿った吐息が深く吐き出され、絡まった手指に力を入れてきた。
「幸せな奥さんだって、たまには『違う私』になってみたくなるの……」
典子先輩の荒く湿った吐息と、俺の喘ぐような息遣いが四畳半に満ちる。
ここで田辺先輩やモールのスタッフさんがふすまを開けたら、言い逃れはできない。
きっと横丁にもいられない。
陽菜や銀さんが俺の目の前から去って行くだろう。
俺の心臓は爆発しそうなくらい脈動している。
しかし、どうしていいかわからず、先輩の熱く柔らかな身体を抱きとめたままだ。
無言のせめぎあい。
お互いに隣にいるべき人がいる。
それを裏切りたくない気持ちと、もし、裏切ってしまったら俺たちはどうなるのか、覗きたい気持ちが綱引きしている。
「おーい、典子ー!
ラムネの補充、まだかい?」
田辺先輩の、ちょっと慌てぎみな呼び声。
それが、二人の間に漂う濃密な空気を一変させた。
若妻のまとっていたのぼせた空気が、瞬時にかわる。
「は、はーい!
慎一さん、今行きますぅ!」
名残惜しそうに湿ったため息をついた典子先輩は、俺の身体からゆっくりと離れた。
乱れた髪を整えている先輩に、ポケットからお金を渡し、黙って落ちていたラムネを拾い上げた。
「誉田くん……ナイショよ?」
【次回予告担当:田辺慎一(典子の彼氏/若旦那役)】
おーい、典子ー!
ラムネの補充、ずいぶん時間がかかってるな。
やっぱり在庫の箱、重かったかい?
俺が行けばよかったな、ごめんよ。
……ん?
なんだか典子の顔、すごく赤いけど、のぼせたのかな。
それに、なんだか部屋の中が、妙に甘ったるい匂いがするような……。
まあいいか。さあ、仕事に戻ろう!
次回、第67話『若妻の刻印、消えない首筋の熱』仕事熱心な夫の裏で、情念は加速します。




