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【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第四章:黄昏の職人と、捏造された昭和

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第55話:モダンガールの微笑と、秘密のサイン

岩瀬さんは小首を傾げた。

いつの間にか距離を詰めているし、何だか顔も赤い。


「あの外箱を短時間で制作する報酬として、鎌ヶ谷さんから許可を頂いたのですが……」


「あ、後で銀さんに確認しておく!

……今、柊珈琲店に頼まれたことがあって。

……じゃ!」


岩瀬さんの返事を待たずに離れる。

銀さんはあの時、何を岩瀬さんに約束したのだろう。

ちゃんと確認しなくちゃ。


オモチャ屋を離れ、メインストリートのエリアに差し掛かると、今度は独特のシャウトと小気味よいハリセンを叩く音が響いてきた。


「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!

見るのはタダ、聞くのもタダ!

だけど、タダより高いものはないって言うだろう?

ここで俺のバナナを買わずに帰ると……夢見が悪いぜ?

ヘイ、結構毛だらけ猫灰だらけ!

そこのお父さん、借金だらけ!

……おっと失礼、そりゃ俺のこと!」


八百屋のハチさんのバナナのたたき売りだ。

ボーカルじこみのよく通る声にのせて自虐ネタもかますと、大きな笑いが起こり、あっという間に人が集まる。


俺が以前見たとき、駐在さんに注意されていたコンプライアンス的にマズイ口上はどうなったのだろう?


パンパンパパン!ハリセンを叩いてハチさんが声を張り上げる。


「生まれは南国、育ちは船上!

荒波超えて、ドンブラコとやって来た!

色は黒いが味は最高、苦労人の味がする!

見上げたもんだよ、屋根屋のふ……じゃなくて、総支配人のサングラス!

今日もピカピカ光ってるねぇ!」


来賓をアテンドしている日立先生がちょうど通りかかり、先生が慌てた様子でお客さんたちに会釈すると、来賓を含めたお客さんがドッと沸く。


「持ってけ泥棒! ……と言いたいが、防犯カメラが見てるからな!

『持ってけ、幸せ泥棒!』とでも言っておこうか!

さあ、買った買った!

金は天下の回りもの、バナナはお口の恋人だ!」


パパン、パンパン!


子供たちが大喜びでハチさんを指差して笑っている。

ちなみに、叩き売られているバナナは、モールの野菜コーナーと同じ価格なのだが、ハチさんのシャウトに乗せられると、まるで特別な果実のように飛ぶように売れていく。


前にチケットをもらった、ハチさんのバンドのライブ、見に行こう。

きっと面白いパフォーマンスをしてくれるのではないか。


その向かい側に目をやると、タバコ屋の店先では、違った種類の熱気が生まれていた。

記念にタバコを買ったらしい、茶髪の若者たちが騒いでいる。


「うわ、『ゴールデンバット』?

両切りじゃん、タール・ニコチンやば!」


「こっちの『わかば』とか初めて見たわ。

これ吸ってたの? マジで?」


パッケージのレトロさと、現代では考えられないタール数値に盛り上がる彼らに、店番をしていたお梅さんがふわりと微笑んだ。

演出用のキセルを優雅に持ち、紫煙を燻らせる仕草で、若者たちに流し目を送っている。


「……坊やたち。昔の男はね、これを肺に入れて命を削ってたのよ。

……その刹那が、色気だったの」


元女優さんのハスキーで艶っぽいその声に、騒いでいた若者たちが一瞬で静まり返った。


「ヤバ……かっけー……」


誰かが漏らしたその言葉は、本心からの感嘆だった。


メインストリートを抜け、横丁の入り口近くにある銭湯「霞の湯」の前まで来た。

このセットは俺が銀さんと初めて会った場所だ。

会った時は横丁の最奥だったけど、レイアウトも変わり、今は入口に配置されている。


ここは案内所も兼ねていて、各テナントのパンフレットやスタンプラリーの台紙が置かれているのだ。


その番台……いや、受付の前に、ひときわあでやかなオーラを放つ女性がいた。


「はーい、横丁の案内図はこちらよ。

スタンプラリーも開催中だから、ぜひ参加してね」


銘仙の着物に、フリルのついた白いエプロン。

大正ロマンを体現した「モダンガール」姿のつくばさんが、パンフレットを配っていた。


「なるほど、そういうことか……」


俺は一人納得した。

彼女は会員制のバー『琥珀』のママ役であるが、実際にはこの横丁にはバーはなく、『琥珀』のセットドアをくぐると休憩室を兼ねたスタッフルームなのである。

日立先生のチーフアシスタントで、テナントでもないお店の店員って、何をするのかな、と思っていたら、総合案内役だったのだ。


これなら、入口から来場者の状況やテナントの人気もおおよそわかり、総監督である日立先生に横丁の生の情報を早く伝えられる。


「今なら、ダンディ理髪店で写真を撮ってから柊珈琲店に行ったら、あんまり並ばなくてすみそうよ……」


来場者にテキパキと応対しているつくばさんは、作品制作の時のオーバーオール姿とは違う、しっとりとした大人の雰囲気だ。


独自のセンスを持つ美大生の立ち姿に、男性客たちが吸い寄せられるようにパンフレットを受け取っていく。


「え?こういう格好したいの?

あら嬉しい……お姉さんたちは、於母影(おもかげ)写真館に行くと、衣装を貸してもらえるわよ」


しっかり、テナントさんの宣伝も忘れない。

確か、モールの子供写真館「スタジオマリス」が「於母影写真館」として、大人用の衣装も用意して出店していたはずだ。


時折、来場者との写真に応じるときの艶やかな微笑を見て、あの時のことがフラッシュバックする。

ここに初めて来て、バイトの手続きをするとき、スタッフルームで二人きりになったのだ。


あのつくばさんの色気で、俺は何かを越えてしまいそうだった。


ふと、つくばさんと目が合った。


彼女は接客用の華やかな笑顔を一瞬だけ崩し、スッと目を細めた。

そして、自分の艶やかな唇に人差し指を当てると、わずかにその指先を舐める仕草をした。

【担当:日立つくば(モダンガール)】

「あら、灯くん。

私たちの『昭和ノスタルジー横丁』はお客さんたちの笑顔で『活きた街』になったわ。

バイト初日のこと、覚えている?あの時の続き、今度しましょうね。

ふふっ、顔が真っ赤。

そういえば、駄菓子屋には、私よりもしっかり者の『あの夫婦』が待ち構えているわよ?」

次回、第56話『駄菓子屋の優等生と、計算高い会計』――その指先のサイン、反則です、つくばさん。

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