第53話:熱狂の入り口と、師匠の指令
「帰りにちょいと横丁をグルッと回ってこい。
どんなもんか、ちゃんと見れてなかったろ?」
俺の背中に銀さんが声を投げかける。
そういえば、最後の追い込みで、完成させることが精一杯だった。
よく考えたら、自分の仕事の成果をちゃんと確かめていない。
テナント向けの横丁の搬入通路を抜け、モールのバックヤードに入る。
あの日、柏木さんが「走るなら、裏口から抜けたほうが早いわよ」と教えてくれた、無機質なコンクリートの壁が続く通路だ。
業者さんの台車とすれ違う他は誰も通らない。
空調の低い唸り音だけが響く。
華やかなモールの裏側にある、静脈のようなこの道。
だが、今の俺にはこの静けさが心地よかった。
あの日のようなひたむきな使命感はなく、ただ、ポットの重みだけが手にある。
それは、俺たちが仕事の山を乗り越えた重みとも言える。
静かなバックヤードを抜け、モールの喧騒を遠くに聞きながら、柊珈琲店にたどり着く。
今日は正面からでなく、裏口からだ。
従業員用のドアをノックすると、すぐにエプロン姿の柏木直美さんが顔を出した。
「あら、灯くん。いらっしゃい。
どうしたの?」
「お疲れ様です。銀さんから頼まれて、ポットをお返しにきました」
柏木さんは、いつもの柔らかな笑みを浮かべて俺を店内に招き入れた。
お昼時のピーク前ということもあり、お店には比較的穏やかな空気が流れていて、豆を挽くいい香りが漂っていた。
俺がトートバッグからポットを取り出すと、柏木さんはそれを丁寧に受け取り、カウンターの奥へ置いた。
「わざわざありがとう。
……ふふ、今日は息が切れてないのね」
「はい。おかげさまで、今日は平和です。
……あの時は、本当にありがとうございました」
改めて、俺は深々と頭を下げた。
あの時、柏木さんがいなくて、コーヒー塗料の材料を手に入れることができなかったら、こんなに落ち着いたプレオープンを迎えられなかったはずだ。
「やぁねぇ。『困ったときは、お互い様』なんだから。
銀次郎さんが今までどおり、ウチでランチ食べてもらえれば、それで良いわよ」
柏木さんは、苦笑しながら首を振る。
俺は、彼女のネームプレートに金の柊マークが三つもついている理由が、わかるような気がした。
「そうそう、銀さんから伝言です。
『ありがとうございました……紬ちゃんによろしく』とのことです」
俺が伝言を口にすると、柏木さんは目を丸くし、それから嬉しそうに目じりを下げた。
「まあ……。あの子ったら、銀次郎さんとすっかりお友達ね。
昨日も『おじちゃんにお手紙書く』って張り切ってたのよ。
……あ、そうそう」
柏木さんは、レジカウンターの下から可愛らしいラッピングの小袋を二つ取り出した。
プリンを模した犬のようなキャラクターがお菓子屋さんの格好をしているイラストが描かれている。
「これ、紬から。灯くんと、銀次郎さんにって。
一生懸命焼いたクッキーよ」
「え、僕にまで? ありがとうございます」
受け取った小袋には、たどたどしい字で『おしごと がんばって つむぎ』と書かれたメッセージカードが添えられている。
少し歪な形のクッキーが、何よりも温かい。
「それから、灯くん。
悪いんだけど、ちょっとこれをお願いできるかしら?」
柏木さんは、続けてボール箱を二つ、カウンターに上げた。
中には、横丁のロゴが印刷された、レトロなデザインのスティックシュガーがぎっしりと詰まっている。
「横丁の出店の方に届ける補充用のシュガーなんだけど、さっき連絡があってね……」
そう言いながら、不織布トートバッグにシュガーのボール箱を入れていくが、視線をほとんど俺から外さないので、会話が全くとぎれない。
「向こうのスタッフが『プレオープンだからか、思った以上にコーヒーが出てる』って悲鳴を上げてるの。
ついでで悪いんだけど、届けてもらえる?」
「もちろんです。任せてください」
「ありがとう。助かるわ。
……ふふ、なんだか灯くん、一週間前より少し背中が大きくなったみたい」
「え? そうですか?」
「ええ。学生のバイトさんというより、職人さんの顔になってきたわよ」
柏木さんは、悪戯っぽくウインクをして手を振る。
俺は少し照れくさくなって、帽子を目深にかぶり直した。
柏木さんから預かった、シュガーの入ったトートバッグを抱え、俺は再び裏口通路を辿る。
行きとは違い、手には行きとは別の重み……誰かの想いを運んでいるような、そんな温かい重さがある。
そして、ポケットには紬ちゃんのクッキーがある。
今度、バイトの給料が出たら、柏木さんと紬ちゃんに何かお菓子でも買おうか、それとも絵でも描いてあげようか……。
そんなことを考えながら、モールのバックヤードから横丁の搬入通路に入る。
テナントさんの台車がせわしなく往き来している。
さっきはモールの惣菜コーナーの出張所『肉のムラマサ』の担当さんが、コロッケの運搬トレイを心配なくらい台車に積み上げて通り過ぎていった。
横丁エリアの裏口に近づくにつれ、通路の向こうから独特の熱気が漏れ聞こえてくるようになった。
壁一枚隔てた向こう側は、ざわめき、笑い声、そして横丁の年代の音楽であふれている。
俺は ID カードをかざし、スタッフ専用扉を押し開けた瞬間、圧倒的な「昭和」の空気が俺を包み込んだ。
「うわ……すご……」
俺は思わず声をあげてしまった。
住人キャストのくせに、ともう一人の俺がツッコミを入れる。
俺たちが作り上げた町なのに、驚いてしまう自分がいる。
一週間前、俺が走り抜けた時はまだ工事現場の延長だったその場所は、人が来て『活きた街』となった。
【担当:鎌ヶ谷銀次郎(塗装工)】
「おい灯、壁ばっかり見てんじゃねえぞ。
俺たちが作ったのは『壁』じゃねえ。『夕焼けの街』だ。
その前に人間が立って、笑って、驚いて、初めて仕事が完成するんだよ。
……お、あのゲーム機の前で、難しい顔してメモ書きしている嬢ちゃんがいるぞ?
ビビるなよ。ちょっと、ハッタリくらいかましてこい」
次回、第54話『データ収集の鬼と、昭和のオーパーツ』あの嬢ちゃん、目が笑ってないな……。




