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【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第四章:黄昏の職人と、捏造された昭和

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第46話:セピア色の壁と、職人の涙

塗りもらしが発覚した真新しいベニヤの壁。


周りの古びたセットの中で、そこだけが白っぽく浮き上がり、まるで「作り物です」と主張しているようだった。


「灯、お前は下の方を頼む。俺は上をやる。

……塗り方は分かってるな?」


「はい! 均一に塗らずに、ムラを作るように叩くんですよね!」


「その通りだ! 人の手垢てあか、タバコのヤニ、長年の埃……

それらをイメージして『汚れ』を描くんだ」


スルスルと銀さんが脚立に上ると、俺はウエスをバケツに突っ込み、熱い液体を含ませて壁に叩きつけた。

ジュワッ、と音が聞こえそうなほど、乾燥したベニヤ板がコーヒーを吸い込んでいく。

壁に色を乗せていくたびに、芳醇なロースト香が広がる。


「それにしても、銀さん」

俺は手を動かしながら、さっきの柏木さんとのやり取りを思い出していた。


「あの柏木さんって、何者なんですか?

銀さんがあの店の常連にしては、ツーカー過ぎる感じでしたけど

……もしかして、昔の彼女とか?」


脚立の上の銀さんが、一瞬動きを止めたが、すぐに柔らかい笑顔で俺を見てハハハと笑った。


「んなわけあるかよ、まあ、知り合いではある。

……でも、それ以上でもそれ以下でもないな」


お互い、下の名前で呼び合っているから、ただの知り合いではないだろう。

柏木さんから奥さんの名前が出ているし、共通の知り合いなのだろうか。


「灯、前にウチが『学習教室』やってるって話したこと、あるだろ?

……直美ちゃんの娘は、その生徒だ」


俺はうなずいた。

なるほど、謎が解けた。


銀さんの奥さんは、自宅の空き部屋を使って『学習教室』を開いている。

読み書きとか計算とか、出されるプリントをどんどんこなしていくシステムで全国展開している教室チェーンの一つだ。

ウチにも『ご自宅で教室を開きませんか?』というフランチャイズ募集のチラシが入っていたな。


柏木さんは、生徒の保護者として、銀さん夫妻と知り合いだったのだ。


「直美ちゃんの娘……(つむぎ)ちゃんはな、なかなか学校に行けなくてな……」


銀さんは刷毛とウエスを抱えて脚立から降りてきた。

見上げると、コーヒー塗料を塗った箇所は年月を経たセピア色に染まっている。


「心配した彼女が、ウチの教室の話をどっかから聞いて連れてきてな。

……それからの付き合いだ」


真新しい場所に合わせて、ガタガタと脚立をずらして、ベテラン職人がスルリと上る。

ほどなくして、刷毛とベニヤ板がすれる音と、ウエスでポンポンと叩く音が聞こえてきた。


「カミさんは、カミさんの考えがあったみたいでな。

教室に通い始めた紬ちゃんをしばらく好きにさせてたみたいだ……

ほれ、ちゃんと手を動かせよ」


銀さんから言われて、ハッとして作業スピードを上げる。

そうだ、スピード勝負だった。


「……そのうち、紬ちゃんは毎日のようにウチに来て、プリントやらをやるようになった。

直美ちゃんが言うには、学校よりこっちが楽しいんだ、ってな」


銀さんは少々誇らしげに言う。

ここからでは見えないけど、きっと「ドヤ顔」に違いない。


しばらく黙々と作業をして、横丁の壁として違和感のないものに仕上がったが、何か足りない。

脚立を片付けながら、銀さんが指示を出す。


「よし、一通りコーヒーが塗れたな……次は『かす』だ。

灯、乾かないうちに、そいつを直接こすりつけろ」


「はいっ!」


なるほど、ここで使うのか。


俺はコーヒーかすを鷲掴みにし、まだ濡れている壁にゴシゴシと擦り付けた。


ザラザラとした粒子が、木の表面に微細な傷をつけ、そこに色素が深く入り込むのだ。

さらに、かすの一部が壁に残ることで、長年蓄積されたほこりすすのようなリアルな汚れが表現されていく。


コーヒーが乾いてしまったら意味がない。


ひとまず話の続きは置いておいて、「あるはず」の汚れを再現していく。

一通りこすりつけ終えると、壁は濡れて黒々としていた。


「よし、ここからが仕上げだ。

灯、あの『手術台』を持ってこい!」


「はい!」


俺は作業場から、あの赤外線ヒーター(カーボンヒーター)をガラガラと押してきた。


銀さんがスイッチを入れると、オレンジ色の熱線が壁を照らし、熱風が吹き荒れた。

熱い風をを浴びながら、俺は壁の変化を見守る。


「いいか、こいつで強制的に水分を飛ばす。そのあとは、トップコートで定着させるぞ。

なにしろ塗ってあるのは生モノだからな」


熱せられた壁から、しだいに白い湯気が立ち上り、作業場に漂う香ばし匂いとともに「コーヒー浸しの板」の水分が飛び、落ち着いた茶褐色セピアの『横丁の壁』に変身していく。


コーヒーの粉が定着し、表面のザラつきが、まるで昭和30年代からそこにあったかのような「枯れた」風合いを醸し出し始めた。


「……すげえ、コーヒーを使って、こんな……」


俺は思わず呟いた。


「どうだ、灯。これが、俺たちがつまづきながら身につけた『技術』だ」


銀さんがタオルで汗を拭いながら、満足げに壁を見上げている。

その横顔は、かつて混沌とした現場で戦ってきた者にしか持ち得ない、色あせない『地力』と、帰る場所を持った者の『底力』が入り混じっていた。


「……いい匂いだろ? 灯」


コーヒーの匂いが充満する作業場で、銀さんがポツンと呟いた。


「はい。すごく香ばしいです」


「でもな、仕事を始めた若い頃、この匂いが嫌いだったんだよな」


セピア色のベニヤ板を眺めて、うなずいたベテラン職人は、ヒーターのスイッチを切った。


「え? 銀さん、 コーヒー好きでしょ?」


思わず聞き返す俺に、銀さんはトップコートの塗料缶を出しながら答える。


「ああ。仕事にあぶれて、安い現場で怒鳴られて、理不尽なイジメも受けてさ……。

そんな時、冷めきった不味い缶コーヒーをすすって、無理やり自分を『これも喰うためだ、仕方ない』って、誤魔化してたからな」


俺は、コーヒー塗料を片付けようと、黒い液体の中でウエスを絞った。


ポタポタと落ちる滴が、まるで銀さんたちの黒い涙のように見えた。


「『なんで俺たちばっかり』って世の中を恨むこともあった。

……だがな、見てみろ」


短時間で仕上げた、深みのある昭和の壁が目の前にある。


「……あの頃流した『悔し涙』も、こうやって塗り込めば立派な『色』になるんだ。

人生も、この壁も同じなんじゃねぇかな。

綺麗なだけ、近道だけじゃ面白くねぇ。

傷や汚れ、回り道をした苦い記憶があるから、ソイツの深みが出るんだって、思いたいもんだな」


俺は、返す言葉が見つからなかった。


この人は、俺の想像できないような思いや出来事にぶち当たり、そのたびに立ち上がってきた人だ。

高校生の俺なんかじゃ語れない『言葉の重み』がある。


俺が呆然としていると、しみじみ話していた銀さんは、我に返って少し照れたように言った。


「ああ、灯がいるんで、つい熱く語っちまったな……すまんすまん。

さて、とっととコートして終わらせちまおう」


防毒マスクをつけながら、スプレーガンを手に取った銀さんは、俺にマスクと保護ゴーグルを装着するように促した。

ほどなくして、トップコートを塗り終わり、排気ファンを回す。


コーヒーとコート塗料の入り混じった臭いが作業場に充満した。

【担当:鎌ヶ谷銀次郎(現場監督)】

「よし、壁は完璧だ。

だが灯、慌てるなよ?

ここで『終わりました!』なんて報告に行くんじゃねぇぞ。

……なんでだって?

ヒヒッ、お前はいい職人だが、まだ『大人のケンカ』を知らねぇな。

いいか、相手を一番へこませる『報告のタイミング』ってのを教えてやる」

次回、第47話『報告のタイミングと、大人の悪知恵』

待たせるのも、仕事のうちだ。

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