第45話:黒い錬金術と、苦い記憶の味
「本当にありがとうございます!」
「横丁にはかおりちゃんが時々入るわ。見つけたら声をかけてあげて。
あと、銀次郎さんには、久江ちゃんによろしくって伝えておいて」
そう言いながら柏木さんは俺に荷物を持たせてくれた。
まるで柊珈琲店の福袋を買いこんだ人みたいだが、教えてくれた裏口ルートをたどれば、早いし、周りの目を気にしなくていい。
俺は深々と頭を下げると、もらった「支援物資」を抱えて駆け出した。
「横丁オープン、楽しみにしてるわよぉ……」
柏木さんの声援を背中に受け、俺は銀さんの元へ急いだ。
教えられた通りに搬入用の通用口を通り、倉庫に飛び込んで、元来た道をもどる。
作業場入り口に着くと、軍手をしたハチさんや駐在さんといった男性キャストさん達が出てきた。
きっと塗りもらしの壁を運びにきたに違いない。
見送りに出てきた銀さんが出迎えるみたいになった。
柊珈琲店のバーゲンセールから帰ってきたような格好の俺に気がついて、片手をあげる。
「お待たせしました……戻りましたっ!」
「おう、思ったより早かったな。
上等上等……で、直美ちゃんは、なんか言ってたか?」
俺を労いながら、中へ招き入れる。
作業場に入ると、銀さんはすでに準備を整えていた。
作業机の上には、刷毛、ウエス(布切れ)、そしてプラスチックのバケツと、お湯が沸いた電気ポットが用意されている。
「えっと……足りなかったら取りに来て、と言ってました……あと」
作業机に不織布のトートバッグとビニールバッグを下ろして、そのままトートバッグからコーヒーかすの小包を取り出す。
「ほう。あと、何だ?」
銀さんはビニールバッグからインスタントコーヒーの包装紙を外しながら続きを促す。
「困ったときはお互い様だけど、いくら常連さんだからって、無茶を言う。
久江ちゃんに言いつけちゃおうかしらって」
「……へっ、言ってくれるねぇ」
ビニールバッグから、柏木さんが持たせてくれたサンドイッチとクロワッサンを取り出した銀さんは、『気が利くじゃねぇか』と一つ俺に放ってよこした。
受け取りながら、俺は続ける。
「お店を出るときには、久江ちゃんによろしく、と言ってました
……久江ちゃんって……娘さんですか?」
うつむきながら、ベテラン職人は首を振った。
照れているのだろうか。
「カミさんだ……直美ちゃんとウチのカミさんは知り合いなんだ」
「知り合い……」
もともと知り合いなら、ただの常連さんじゃないので、ここまでしてくれるのだろうか。
「……ま、カミさんの話はあとでもできるから、ここまでだ。
灯、腹減ってんだろ? 食いながらでいい、よく見とけ。
これからやるのは『塗装』じゃねえ。『錬金術』だ」
受け取ったサンドイッチの包装を外してかぶりつく。
卵とツナがミックスされた具材が口いっぱいに広がる。
パンはダックベーカリーのものだろうか。モチモチ感があって食べ応えがある。
これにコーヒーがセットで付くのだ。銀さんが常連さんなのがよくわかった。
袋いっぱいの黒いコーヒーかす。
ボトル入りのドリップコーヒー。
そしてインスタントコーヒーの瓶。
まず、銀さんは、バケツにインスタントコーヒーの瓶を開け、惜しげもなく全量をぶちまけた。
粉が舞い上がるのも構わず、そこに電気ポットの熱湯を一気に注ぐ。
ジョボボボ……ッ!
湯気とともに、強烈なコーヒーの香りが作業場に充満した。
柊珈琲店で嗅いだ、優雅な香りじゃない。
焙煎工場に顔を突っ込んだような、鼻の奥を刺激する濃厚すぎる香りだ。
ボーッとした気持ちが一瞬で吹き飛ぶ。
「うわっ……すごい匂い……」
「これくらい濃くねえと色はつかねぇ。
……で、こいつを混ぜる」
銀さんはドリップコーヒーの黒い液体もそこへ加え、辺りにあった角材でぐるぐるとかき混ぜる。
漆黒の液体が渦を巻く。
泥のようにドロリとしたそれは、もはや飲み物には見えなかった。
「銀さん、これ……」
「おう、『特製・コーヒー塗料』の完成だ」
銀さんはウエスをその液体に浸し、軽く絞ると、手元にあった端材のベニヤ板に塗りつけた。
板に染み込んだ液体は、薄い褐色……いや、使い古された木材のような、深い飴色に変化した。
「えっ……!? すごい、一瞬で古い木みたいに……!」
俺はサンドイッチを持つ手を止めて見入った。
ただのベニヤ板が、何十年も風雨にさらされてきたような、もしくは人の手で触られ続けたような、温かみのある茶色に変わっている。
「コーヒーに含まれるタンニンって色素が、木材の繊維に入り込んで染め上げるんだ。
こいつは乾くとマットな質感になって、わざとらしいツヤが出ねぇ。
これなら『横丁の壁』にうってつけ、と思ってな……」
「こんな身近なもので……銀さん、すごい発想ですね」
俺が感心すると、銀さんは少し遠い目をして、苦笑交じりに首を振った。
「俺の発想じゃねぇよ。
……昔、金がなかった頃の『知恵』だ」
「金がなかった頃……ですか?」
銀さんは、懐かしそうにバケツの中の黒い液体を見つめた。
「お前、90年代の『ミニシアターブーム』ってのを知ってるか?」
「ええ、聞いたことあります。確か、低予算だけど尖った映画がたくさん作られた時期ですよね」
確か、絵画教室の題材探しのときに、何かの本で読んだことがある。
「そうだ。あの頃はバブルが弾けて、そのあおりを食らって会社は人を雇うことをやめだした。
……『就職氷河期』なんて呼ばれてた時代だ」
サンドイッチを飲み込む。
銀さんはコーヒー塗装の試し塗りした端材を眺めながらうなずいている。
横丁の時代とは違う、俺が知識でしか知らない「あの頃」を、銀さんは駆け抜けてきたのだ。
「……良い大学を出たやつが町工場に就職するような時代だ。
俺みたいな半端な職人や、食い詰めたクリエイター、それから売れない役者たちが、掃き溜めみたいに現場に集まってた」
銀さんは、懐かしそうにバケツの中の黒い液体を見つめた。
「制作会社も吹けば飛ぶようなところばかりだ。
当然、金はねえ。でも、情熱だけは売るほどある。
そんな『貧乏監督』たちの仕事を片っ端から引き受けてたんだ。
俺も金がなかったからな。若い頃じゃ、仕事を選ぶなんて生意気なことはできなかった」
今はベテランとなった職人が、脚立を持ち出して、塗りもらしのベニヤ板の前に立てかける。
「……予算がないから高いエイジング塗料なんか買えねぇ。
だから、撮影所の食堂からコーヒーのかすを貰ってきたり、タバコの吸い殻を煮出したりして、必死に『安っぽいセット』を『重厚な名画の舞台』に化けさせたんだよ」
「へぇ……! 銀さんが、映画のセットを」
日立先生はそれを知っていたのだ。
この場所で、その時の経験を活かせることを。
そして、銀さんが「積み上げてきたもの」を、俺に継がせようとしていることも。
サンドイッチを食べ終わった俺も、準備作業を手伝いながら、銀さんの「あの頃」を聞く。
「あの頃の監督たちは口癖のように言ってたよ。
『銀ちゃん、金はないけど、どうにかして良い画が撮りたいんだ。頼む!』ってな。
……今の保土ヶ谷みたいに『良きにはからえ』みたいな丸投げなんかできない。
……『ないないづくし』の中で生き残りに必死だったんだよ、みんな」
この人には、保土ヶ谷さんと違って「持たない者」がコツコツと積み上げてきた地力がある。
銀さんの横顔が、少し誇らしげに見えた。
「だから俺たちも、コーヒーだろうが泥だろうが、使えるもんは何でも使って食らいついた。
……今思えば、結構無茶なことも言われたし、やってたな」
目の前のバケツに入った液体が、ただのコーヒーではなく、銀さんが生き抜いてきた「時代の年輪」そのものに見えてくる。
「ま、おかげで俺はこうして餬口をしのいで、生き残れたわけだ。
……いったん、思い出話はここまでだ。
こいつは塗料と違って『生もの』なんでな。時間が経てば腐るし、カビも生えちまう。
塗ったらすぐに乾かしてトップコートで定着させる。スピード勝負だ!」
「はいっ!」
【担当:鎌ヶ谷銀次郎(現場監督)】
「いいか灯。
金がないなら『知恵』を使え。
無い物ねだりをしてる暇があったら、手元にある泥でもコーヒーでも、使えるモンは何でも使うんだ。
……汚ねぇ色だって?
バーカ、こいつは俺たちが生き抜いてきた『戦いの色』だ。
よく見ておけ。ただのベニヤ板が、一瞬で『昭和』に化けるぞ」
次回、第46話『セピア色の壁と、職人の涙』
その壁には、俺たちの「悔しさ」が染み込んでいる。




