第37話:氷の青と、粋な電気店
「だ、ダメですってば、俺、帰らないと」
典子先輩が何か言いかけた時、軒先が騒がしくなった。
「駄菓子屋までの導線を確保しないと」「キャストさんの配置のシミュレーションもしないといけませんね」という会話が聞こえる。
若旦那の田辺先輩と蘭堂座長が帰ってきたのだ。
「いけない!早く、早く支度して!」
「引き留めてたのは典子先輩じゃ……」
一方的に急かされながら、道具箱を抱えて、服装を整える。
俺の頭から足まで視線を走らせて、典子先輩が小さく「うん、大丈夫」と俺に頷いて囁くと、
「あなたぁ、お帰りなさぁい!」
と呼びかけながら、軒先に向かって行った。
「ああ、典子、今帰ったよ、良い子にしてたかい?……ん?」
奥から俺がヌッと出てきたので、若旦那の眉間に皺が寄る。
彼が何か言う前に、俺は座長にふすまの調整が終わって戻ることを報告した。
自分で許可を出した割に、予想外にいちゃつく若夫婦に戸惑う座長は、軽くお礼を言うだけで、俺を解放してくれた。
さあ、戻ろう。
振り返ることなく駄菓子屋を離れる。
スタスタと歩いていたのがしだいに早足になり、ついには駆け出してしまった。
「あ、ペンキ屋さん、忙しいのにありがとね」
すれ違ったお梅おばさんが、俺の様子をみて声をかける。
軽く片手をあげてそのまま走る。
工事の人やスタッフさんを避けながら、横丁の通路を走った。
角を曲がり、ベニヤ板と足場だらけの現場への通路に飛び込むと、俺は足を止め、膝に手をついた。
息が切れる。
心臓が早鐘を打っている。
「……あ、危なかった」
先ほどまで肌で感じた、典子先輩、いや、『若い人妻』の湿度の高い視線と、衣服越しに触れた柔らかな身体の感触が、ありありと残っている。
あの時、田辺先輩が帰ってこなかったら、俺は間違いなく何かを踏み越えていた。
つくばさんといい、岩瀬さんといい、典子先輩といい、いったいどうしたというんだ。
いくらなんでも、みんな役に入りすぎだ。
バックヤードのひんやりとした風が、火照った頬を撫でていく。
俺は大きく深呼吸をした。
「……戻らなきゃ。銀さんの課題をやらないと」
俺は両手でパン、と自分の頬を叩いた。
あの甘美な夢うつつの時間は終わりだ。
これから、来場者のみんなが見る夢を創る現実に向き合わなければ。
頭を切り替えろ。
俺は今、ペンキ屋の若親方役でもリアルはまだまだ見習いなんだ。
息を整えてから作業場に戻ると、銀さんはエアブラシの洗浄作業中だった。
むせかえるような洗浄液の匂いが、典子先輩の残り香をかき消した。
銀さんに、蘭堂座長の依頼を終えたことを報告する。
俺の話をウンウンと聞きながら、銀さんは、エアブラシのカップに残った塗料を容器に戻し『うがい』作業のために、洗浄液に入れ替えた。
コンプレッサが震え、カップはブクブクと泡を立てる。
「そうか、お前の手でなんとかしたんだな。良くやった」
銀さんの手は止まらない。
塗料で極彩色に染まったボロ布に、ハンドピースを押し当てて洗浄液を吹き付ける。
「銀さん、駄菓子屋に行く前に出された課題、電気屋さんの看板のデザインなんですが」
ブシューという排気音が響くなか、銀さんは、俺に続けろ、と促した。
「さっき教わったことを考えてみたんです。
叩かれ台の前に口頭で銀さんにアイディアを聞いてもらった方がいいなって」
ほう、といいながら、ハンドピースを分解してニードルを取り出し、慎重にボロ布で液を拭き取る。
銀さんがすぐに返事がないあたり、間違いではないようだ。
「お、灯も考えたな。で、肝心のアイディアってのはどうなんだ?」
拭き終わったハンドピースを、分解したまま、箱に入れて棚に置く。
大きく息を吸い、真剣に考えた小ネタをいう。
「アナハイム電機商会です……英語読みでアナハイムエレクトロニクス……」
「あ、アナハイムぅ?」
俺のアイディアが斜め上だったのか、銀さんがコントみたいにずっこけそうになる。
典子先輩の色香に理性が飛びそうになっても、若夫婦のいちゃいちゃに配線を危うく切りそうになっても、考え続けて出た渾身のネタだ。
「これなら、あのアニメのネタだって、わかる人はわかるし、面白がってくれると思うんです。
『100年くらい後には月に工場持ってんのかよ』みたいなことを感じてくれるんじゃないかって……」
熱くなっているのが自分でもわかる。
端からみたらふざけてると思われるだろう。
しかし、何の気なしに来た横丁に、あのアニメが好きな人が、この看板を見つけて「サプライズだ」と喜んでくれたら……。
俺が同じ立場だったら、きっと嬉しい。
銀さんは、嬉しそうに斜め上の棚を見ながら腕組みし、ポツリと言った。
「……『アナハイム電機商会』か。……惜しいな」
「え? 惜しい?……あ、やっぱりこういう『小ネタ』はマズかったでしょうか…?」
いいや、と銀さんは首を横に振った。
「違う。遊び心は悪くねぇ。……だがな、今、『アナハイム』っつったら、世間一般にゃあ『野球チーム』のイメージが強すぎる」
銀さんは、パイプをくわえ直して続けた。
「知ってるマニアな奴はニヤリとするかもしれねぇが、知らねぇじいさんばあさんはどう思う?
『なんだ、アナハイム?メジャーリーグのグッズでも売ってんのか?昭和ノスタルジー横丁なのに?』って混乱するだろ。
……看板ってのはな、一瞬で『何屋か』分からせなきゃ意味がねぇんだ」
「あ……! 確かに……。「わかる人」のことばかり考えて、『わからない一般の人』のことを忘れてました」
「方向性は良いんだぜ。もう少し変化球だな」
ニヤニヤ笑いながら俺に話す銀さん。
この人は、きっと誰かを喜ばすことが好きなのだと思う。
「……なあ、灯、『黒潮電気通信』ってのはどうだ?」
「えっ? それって……」
何の変哲もない名前だ。ネタがわからない俺に、銀さんはニヤけたまま、棚から塗料缶をヒョイと投げてきた。
受け取った缶は、見慣れない、しかし美しい「氷のような青色」のラベルが貼られていた。
そして、そこにははっきりとこう書かれていたのだ。
『J COLOUR : AYANAMI BLUE』
「わっ! ……これ……!」
「看板のベース(地色)は、その色でどうだ?前、この作品のイベント現場で使ったが、発色が良くて、冷てぇのにどこか懐かしい、いい青だ」
俺は手の中の塗料缶と、ニヤリと笑う銀さんを交互に見た。
「どの小ネタか分かる奴には、その『青』だけで通じる。
分からねぇ奴にも、『黒潮』って漢字なら、日本の電気屋だって伝わる。
……それが『粋な仕事』ってもんだ」
この人は、底知れない遊び心を持っている。
この企業名は、あのアニメを良く見ないと気が付かないのだ。
「この電気屋、そのうち汎用人型決戦兵器を作るかもな」
銀さんはこらえきれずにガハハと笑った。
そして、俺の肩をポンポン叩く。
「小ネタって銃を撃つなら、闇雲に射っちゃいけねぇよ。
『的』を定めて、一発で仕留めなきゃあ」
確か、あのアニメでも、敵を一発で仕留めるシーンがあった。
将来、社会に出たら、この人の背中にどこまで近づけるだろう。
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【校外活動報告書】
提出先: 進路指導部 稲毛教諭
氏名: 1年B組 誉田 灯
場所: 昭和ノスタルジー横丁
【業務内容】
店舗看板のデザイン企画(ラフ作成)、および旧式遊技機の修理修繕。
【現場での気付き・学び】
1. 「叩かれ台」による合意形成
完成品をいきなり提示するのではなく、初期段階であえて隙のあるラフ(叩かれ台)を提示し、依頼主の意見を引き出すことの重要性を学んだ。
「手戻り(リテイク)」を最小限に抑えることは、自分の労力を守るだけでなく、相手との認識のズレを早期に解消する「対話の技術」であると痛感した。
2. 「独りよがり」と「粋」の違い
看板デザインにおいて、自分の知識や好みを押し付けることは「独りよがり」であり、ノイズになる。 万人に「何屋か」を即座に理解させた上で、分かる人にだけ伝わる遊び心を忍ばせる(今回は色彩による暗号化を用いた)。
この二段構えの配慮こそが、プロの仕事における「粋(サービス精神)」であると学んだ。
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【次回予告(担当:神栖陽菜)】
灯くん、見て見て! ジャジャーン! 『満腹食堂』の看板娘だよ! 水玉のシャツに前掛け、似合ってるかな? えっ、通路が狭くて通れない? 任せて! 私についてきて! 三段跳び仕込みのステップ、見せてあげるから!
次回、第38話『水玉の稲妻と、昭和の看板娘』 水玉の稲妻って何?強そうだね!!




