第36話:朱《あか》い若妻の誘惑と、魔法の手
「え?……あ、すまん、もう少し兄ちゃん借りて良いか?……うん、わかってるって」
蘭堂さんが俺に向き直ると、もう一つ修理して欲しい場所があるのでそちらもお願いしたい、と言った。
「詳しいことは若奥さんから聞いてくれ。私たちはモールの人と打合せだ」
田辺先輩と座長が連れ立って出かけていく後ろ姿に典子先輩が「あなた、早く帰ってきてね」と見送る。
どこまで演技なのかわからないリアルっぷりだ。
二人の姿が見えなくなると、典子先輩は俺に向き直り、
「この奥の倉庫……ふすまの建て付けが悪いのよ。直してくれる?」
「え?……俺でできれば……」
案内されたのは、駄菓子屋の店舗の奥にある、在庫置き場として使われているスペースだ。
そこは、昭和の団地の一室を再現した『四畳半』のセットだった。
裸電球、ちゃぶ台、お客さんの視線に入らないスペースに積み上げられた、駄菓子の段ボール。
妙に生活感のあるその空間は、表の賑わいから遮断された、完全な密室だった。
「ここよ。……このふすま、たまに開かなくなるの」
「わかりました。見てみます」
古びた加工をしているのか、どこかから本物を調達してきたのかわからないが、建て付けが悪くて確かに滑りが良くない。
道具箱から工具を取り出し、金具を緩めたり締めたりしながら、調整していく。
この空間には、俺と典子先輩しかいない。
工具でふすまをいじる音と、遠くで聞こえる工事の音。
スピーカーチェックなのか、昭和の懐メロが時折聞こえる。
「……どう?直りそう?」
典子先輩は、どこからか持ってきた、お茶を乗せたお盆をちゃぶ台に置き、俺の背中を見つめたまま動かない。
その所作は、完全に『夫の留守中に業者を招き入れた妻』のものだった。
俺が作業している背中に、典子先輩の視線を感じる。
「……?」
突然、作業服を何かに摘まれた。
振り向くと、典子先輩は、段ボールの上に置かれていた『赤と黄色のプラスチックが格子状に組まれた、伸び縮みする魔法の手のオモチャ』を手に取り、カチカチと鳴らした。
「ふふ……。捕まえちゃった」
「……なにやってるんですか。だいたいそれ、売り物ですよね?」
「懐かしくて、つい。……ねえ、これって便利ね。
手の届かないところにいる人でも、こうやって引き寄せられるもの」
心拍数があがる。
俺は再び作業に戻り、ふすまの調整を続ける。
時折聞こえるカチカチというオモチャの音に加え、背中に若妻の舐めるような視線を感じる。
一室に流れる空気は、なぜか「前世からの因縁」めいた、より濃密で逃げ場のない湿度を帯び始めていた。
ただならぬ雰囲気に、早く本来の仕事に戻らなくては、と心が警告をあげる。
「奥さん、ふすま、調整しました」
ふすまを滑らかにスライドさせる。
雰囲気が伝染したのか、典子先輩を「奥さん」と呼んでしまう俺がいる。
「ありがとう……でも、不思議ね。誉田くんと一緒にいると、なんだか『ずっと昔からこうしていた』ような気がしてくるの……」
カチッ。
作業服の手前で魔法の手が止まる。
「お、奥様……な……何をおっしゃってるんですか」
心の警告音が大きくなり、俺はつとめて冷静に工具をしまい始めた。
衣擦れの音がしたので顔を上げる。
目の前で典子先輩が、よろめくように小道具のタンスに手をついていた。
「奥様……先輩、大丈夫ですか?」
半分、素に戻って様子を伺う。
二人きりの空間だ。何かあったら弁解できない。
「……ダメよ。これ以上、ペンキ屋さんを見ちゃいけないわ。
私には、心に決めた主人がいるのに……そんなふしだらな……」
独り言のようだが、その葛藤がリアルなのかフィクションなのか、判別が難しい。
俺の視線に気づいていないのか、朱い顔の典子先輩は、誰もいない空間に向かって、苦しげに溜息をついている。
結婚指輪のつもりだろうか、左手の薬指を右手でギュッと握りしめ、身をよじった。
「でも……今の私は一人なの。この部屋には、私と、一生懸命にしてくれる若い職人さんだけ……。
ああ、いけないわ、どうしてこんなに胸が疼くの……!」
彼女は、自分の中で勝手に盛り上がり、勝手に葛藤していた。
その姿は、昭和の昼メロのヒロインそのものだった。
蘭堂座長の指導の巧みさがなせるのか、本気とも取れそうなあまりの迫真の演技に、冷静に声をかけた。
「……あの、奥様……典子先輩?」
「来ちゃダメ! ……ううん、来てほしいの? どっちなの、私!」
彼女は俺に背を向け、自分の肩を抱いて震えている。
「すいません、俺、そろそろ戻りたいんですけど……」
俺の言葉なんて聞いちゃいない。
さっきまでど素人の人と思えない、役の入りようだ。
先輩は『憑依型』の役者なんだろうか?
「……このままじゃ……このままじゃ、私……!」
典子先輩は、振り返りざまに、足をもつれさせた。
「ああっ、めまいが……! 」
「うわっ、危ない!」
俺は反射的に、倒れ込んできた彼女を支えたので、典子先輩と抱き合う形になってしまった。
「ひぁっ……///」
若妻の身体が魚のように跳ねる。
典子先輩からのむせかえるような甘い香りを感じ、俺の全身から汗が噴き出す。
「お……奥様っ!」
「……捕まっちゃった。ふふ、悪い人ね……」
彼女は、うっとりとした目で俺を見上げ、俺の胸板に手を這わせた。
【担当:誉田灯(ペンキ屋の若親方)】
やばい、やばい、やばい! これ演技ですよね!? 奥様……違うっ!典子先輩、完全にイッちゃってませんか!? 『あなた』とか『奥様』とか、もう訳が分からない!
ちょ、先輩、距離が……! 香りが……! 心臓の音が聞こえそうなくらい密着してるんですけどーーッ!!
次回、第37話『氷の青と、粋な電気店』 俺は、昭和の団地妻から生還できるのか?




