第30話:職人の審美眼と、資料室の待ち人
描かれているのは、銭湯の定番・富士山。だが、その雲のグラデーションや空の青さは、作り物のセットの中で唯一『本物の奥行き』を持っていた。
このセットが完成したら、隈取りをした豪快な相撲取りが出てきそうだな、と思っていると、銀さんと呼ばれた男性が振り返りもせずに言う。
「……おう、ありがとさん。そこに置いといてくれ」
「おいおい、物じゃないぞ。バイトの誉田灯くんだ」
「おう、すまん。話してたアンタの弟子だな」
銀さんがゆっくりと振り返る。頭はタオルを巻き付け後ろで縛る、いわゆるファーマー巻きで、塗料で汚れた年季の入った作業着。
そして口にはハッカパイプをくわえている。
役ではない、リアルに昭和な雰囲気を漂わせる「ザ・職人」と言うべき感じの人だ。
見たところ、日立先生より一回り年上に見えるので、年齢は60代くらいだろうか。
振り返った姿のまま『銀さん』と呼ばれた男性は鋭い眼光で俺を射抜いた。
言われてもないのに、背筋を伸ばして直立不動の姿勢になる。
「は、初めまして! 誉田灯です。よろしくお願いします!」
俺が頭を深々と下げると、銀さんは、足場からひょいひょいと軽やかに降りてきた。
その身のこなしは、文化祭の後夜祭に屋上で見た、陽菜のパルクールより合理的でムダがない。
俺の目の前に立った銀さんは、アゴをしごいて品定めするように俺を見た。
軍手を外したゴツゴツしたその手は、様々な仕事をこなしてきた、まさしく職人の手だ。
「……ふん。思ったより、ひょろっこいな。
腕立てぐらいやっとかねぇと、いざってときに踏ん張りがきかねえぞ。身体が資本だ」
「は……はあ……」
日立先生は少し離れたところで、ニヤニヤしながら俺たちのやり取りを見ている。
「だが、筆使いには迷いがねぇな。良いもの持ってると思うぜ」
「……え?」
銀さんの口から出た意外な言葉に、俺は顔を上げた。
「日立に見せてもらったよ。いつだったか、このモールでやってた日立の展示会に出してた絵だ。
……ほれ、筆ペンで描いた、雨上がりの風景画だよ」
ハッカパイプを持った手で、ゼスチャーするベテラン職人。
握られたハッカパイプが何だか煙管に見える。
「あの時……!」
笑みをたたえながらうなずく銀さん。
確かに、俺は絵画教室の生徒の作品として参考出品していたのだった。
そして、あの展示会で日立先生は、珍しく来客が多かった。
その中に銀さんがいて、俺の作品を見ていたのだ。
それも、プロの目で。
「でもな、正直、日立から習ってんなら、もうちっとデッサン頑張らねぇと、日立が可愛そうだぜ。
ま、学校で習うような『上手い絵』じゃねぇわさ」
「……すみません」
「謝るな。……俺が言いてぇのは、『気持ちに嘘がねぇ絵だ』ってことだ」
銀さんは、描きかけの富士山を親指で指した。
「今の世の中、小奇麗でただ上手いだけの『死んだ絵』が多すぎる。
だが、お前の描いた『雨上がりの路地』には、お前さんの気持ち、つまりお前さんの感じた湿度があった。
色がねぇのに、アスファルトの匂いが漂ってきやがった。……久しぶりにそんな絵を見てな」
嬉しそうに天井の夕焼け空を見る銀さんの横顔を見て、俺の胸の奥が、熱くなった。
「それとな……」
銀さんが俺に向き直った。
眉間に皺が寄っているが、眼差しは春のひなたのように柔らかい。
「お前さんの絵、たいていは素通りしてたが、俺と……あと二人、デートっぽい兄ちゃんと姉ちゃんは、その絵の前で足を止めてたぜ」
「……え」
「覚えてるぜ、ベレー帽をかぶった目のくりくりしたお姉ちゃんだ。
顔を真っ赤にして、まるで恋人を見るような目で立ち尽くしてやがった」
心臓がドクリと跳ねた。
あの時、典子先輩は、ちゃんと俺の絵を見てくれていたのか。
俺が気づかないところで、俺の絵は誰かに届いていたんだ。
「あの姉ちゃんたちには『熱』に見えたんだろうが、俺には『雨上がりの静けさ』に見えた。
同じ絵でも、見るやつによって色が変わる。……それが描けるのは、お前が『余白』の怖さを知ってるからだ」
「銀さん、そろそろ仕事を再開しないか?灯くんを育ててみたいって言ったのはアンタだろ?
そんなもったいつけてないで、どんどん灯くんに銀さんの「持ってるもの」を教えてあげなよ」
「わ、バカ!余計なこというなよ」
「ハハハ、このままだと一晩中話しそうだから、納期に間に合わないって思ってな」
「え……納期、厳しいんですか?」
「余裕はねぇな。日立やモールの奴らの要望がややこしくてな」
ジロリと日立先生を睨む。
首をすくめる先生だが、銀さんの目は笑っていた。
「一人じゃギリギリだが、お前さんもいれば何とかなるだろ……いや」
心配する俺に銀さんはキッパリと言った。
「間に合わせる。納期が遅れたら、他のみんなが困る。
納期は第一。仕事ってのはそういうもんだ」
銀さんの言葉には力があった。
きっともっと厳しい現場がたくさんあったに違いない。
「よし、坊主、頼むぞ ……あ、まずは、だな」
銀さんが思い出したように手を止めた。
「銭湯の入り口に貼る『入浴の心得』の看板を描きてぇんだが、当時の文言がわからねぇ。
事務所の資料室に古い日誌があるはずだ。日立から作業着を受け取って着替えたら、ひとっ走りコピー取ってきてくれねぇか?」
「資料室……ですか」
一瞬、稲毛先生の言葉が蘇ったが、今の俺は「銀さんに認められた」という高揚感と「納期が迫っている」という切迫感でそれどころではなかった。
「わかりました! すぐに行ってきます!」
「おう、頼んだぞ」
俺は、日立先生からニッカポッカと足袋靴の衣裳を受け取って、意気揚々と銭湯セットを飛び出した。
プロである銀さんに認められた。
その事実は、俺の背中をぐいぐいと押した。気持ちが沸き立ってしかたない。
俺なんて、ちょっと絵が描けるだけのモブ野郎と思っていたのに、あの人は「技術」と「心」を見てくれた。
飛び込むように入った更衣室で、ペンキ職人の衣裳に着替えるのももどかしい。
慌てて更衣室を飛び出すと、工事の案内板に戸惑いながら、迷路のような通路を抜けると、ベニヤ板と足場で組まれた、お客さんから決して見えない「昭和の裏側」が現れた。
そんな「バックヤード」の世界には、無骨なコンテナハウスがいくつも連結されて並んでいる。
これが『昭和ノスタルジー横丁・統括事務所』なのだった。
イベント終了後の撤収を考慮して設置された、仮設の管理棟である。
表の「昭和の温かみ」とは対照的な、実務的な建物。
もらったばかりのIDカードをかざして入る。
入り口近くのデスクに座っていた若い男性に要件を告げると、建物の一番奥の資料管理課に銀さんが見たい資料があるのでは、と案内してもらった。
「えっと、資料管理課……ここか。失礼しまーす」
ガチャリ。
「あら、お疲れ様です……あなた、誉田くん?」
中に入ると、市役所の人かモールの社員であろうおばさんにいきなり話しかけられた。
知り合いだろうか?誰かわからず驚いていると、
「あら、誉田灯くんという子が手伝いに来るって聞いたもんだから……ちょっと、誉田くんが来たわよ!」
どういうことだ?
【担当:岩瀬鈴江(資料編纂担当(志筑高校より参加)/探求者)】
遅いですね……。 貴方が来ることは、計算済みですよ、誉田くん。 『リサーチの鬼』? 失敬な。私はただ、真実に誠実なだけです。
さあ、覚悟はいいですか? この日のために、特別な『実験装置』を組み上げました。 逃げ場はありませんよ。ここは、私のテリトリー(資料室)ですから……フフフ
次回、第31話『電子相性診断機と、暴走する愛の論理』 さあ、貴方の深層心理、丸裸にします!




