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【完結】【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第四章:黄昏の職人と、捏造された昭和

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第28話:紅《くれない》のモガと、黄昏(たそがれ)の純喫茶

振り返ると、そこには時代錯誤な美女が立っていた。


つくばさんだ。


彼女は、いつものオーバーオールではない。

大正ロマンを思わせる、銘仙の着物にフリルのエプロン、頭には大きなリボンをつけた、いわゆる「モダンガール(モガ)」風の衣装を身に纏っていた。


「つ、つくばさん? その格好……」


「私の指示などを理解して伝えるという、大事なポジションには、娘が適任だと思ってね。

モールの社員さんにはバックアップしてもらうことを条件に、つくばに頼むことにしたんだ」


やはり肉親の採用はバツが悪いのか、聞いてもないのに先生は言い訳をする。


「お父さんを手伝いながら、ここのスナックのママ役として街に出るの。

この街の空気を決めるのは私。どう? この時代の『退廃的な美』、似合うでしょ?」


彼女はクルリと回ってみせた。その動きは大きく、自信に満ちている。

芸術家特有のハイテンションなオーラを放っているが、アトリエや美大で見た雰囲気ではない。

純粋にこのプロジェクトとママ役を楽しんでいる、頼れるお姉さんといった雰囲気だ。


俺は純粋に、彼女の美しさと、この空間へのハマり具合に感嘆した。


「さて……灯くんはバイトとして来てもらうから、手続きが必要なんだが……おっ?」


日立先生のスマホがブーンブーンと震えた。

画面を見て眉をひそめる。手短に会話した後、胸ポケットにスマホをねじ込んで、


「すまん、ちょっとモールの人から呼び出しだ。つくば、灯くんの手続き、頼むな」


書類入れをつくばさんに渡し、小走りにスタッフルームを出て行く先生を見送る。

ドアが閉まり、ドタドタという足音が遠くなると、つくばさんは、待ってましたと俺の腕をグイッと掴んだ。


「んんっ……!」


触れた瞬間、彼女の身体がビクッと震えたのが、俺の腕を通して伝わってきた。


「つくばさん、ちょ、どうしたんですか」


今まで単に温かかった彼女の手のひらの温度が、一気に跳ね上がる。


「……あっ///」


つくばさんの動きが止まった。

彼女の瞳がとろんと濁り、潤み始める。


さっきまでの「自信満々な演出家」とは別人のようだ。


「……あふぅ」


呼吸が、しだいに浅く速くなり、顔が紅(あか)く染まってゆく。


「……やっと……捕まえた♪」


彼女が絞り出すように呟いた声は、熱に浮かされたように湿っていた。

これはスナックのママの演技じゃない。


何かが、彼女の奥底にあるものを発火させた。


気がつけば、つくばさんの周りの空気も、妙に暖かく、そしてぬめりとした粘り気を帯びたものに変わっている。

美大の時と同じく、果実を煮詰めたような香りが漂ってきた。


「……座って」


粘つくような声で話しかけるつくばさんは、スタッフルームの一番奥のソファに俺を押し込み、自分もその隣に、太ももが触れ合う距離で座った。

密着した太ももから、彼女の異常な体温が伝わってくる。


自分の置かれている状況に頭が追いつかない。


「つ、つくばさん、て、手続き……」


「そんなご大層なもんじゃないわよ。

普通のバイトと同じで、必要書類の案内とこの横丁の設定資料が数枚。読めばわかるわ」


ソファの前のテーブルに書類入れを放り投げ、俺にしなだれかかると、俺の鼓動が激しくなった。

顔が熱くなるのが自分でもわかる。


「灯くん。この空間に足りない『色』があるの。

それは、『満たされない恋人たちの吐息』よ。あなたに、それを描いてほしいの」


「いや、俺はエイジング塗装やセットの絵のメンテナンスとかが仕事じゃ……?」


俺の言葉を聞き流したつくばさんは、着物の帯の間から、小さなブリキの小箱を取り出した。

表面の塗装が剥げかけた、年代物のピルケースだ。劇団の小道具だろうか。


「これ、知ってる? 『口中香(こうちゅうこう)』っていうの」


「こ、口中香……?」


「ええ。昔の恋人たちが、密会する前に口に含んだ、秘密の仁丹(じんたん)。

……ほら、見て」


彼女が小箱を開けると、中には真紅の小さな粒が数粒、転がっていた。


それは薬というより、毒々しいほど鮮やかな宝石のようだった。


つくばさんは、その一粒を、自分の人差し指の腹に乗せた。


「この粒にはね、ジャコウと薔薇の香りが閉じ込められているの」


彼女は、その紅い指先を、わざとらしくゆっくりと自分の唇へと運んだ。

俺を舐めるように、舌が這い出る。


「んん……」


ぽとり。

紅い粒が、ぬめぬめと濡れた舌の上に落とされる。


「……ん」


つくばさんは、粒を舌の上で転がし、妖艶な笑みを浮かべた。

その瞬間、果実を煮詰めた香りと口中香が混ざり合い、甘く重たい香りが漂ってきた。


古びた化粧品のような、それでいて脳の奥を痺れさせるような、昭和の夜と言うべきの匂いだ。


「灯くん。……この香り、描ける?」


俺の目を見据えながら、彼女の顔が近づいてきた。瞳孔が開いているのが分かる。

その頬は、スタッフルームの蛍光灯に照らされて、内側から噴き出すような濃密な紅に染まっていた。


「つくばさん……お姉ちゃんっ……!」


心臓が破裂しそうにバクバクしている。つくばさんに圧倒されながら、飲まれないように抗う。

だが、俺は視覚だけでなく、嗅覚まで支配されていた。

彼女の吐息に乗った「口中香」の香りが、俺の理性を内側から溶かしていくようだ。


「描けないの? ……じゃあ、味わって」


つくばさんは、俺の襟元を掴み、顔を寄せた。

彼女の紅い唇の隙間から、さっきの紅い粒がチラリと見える。


「昔の人は言ったわ。言葉で愛を語るよりも、同じ香りを共有する方が、深い契約になるって」


「け、契約?……ちょ、つ、つくばさん……近いですって」


「近くなきゃ、移せないでしょう?」


彼女は、口移しをするかのような距離で、甘い息を俺の耳に吹きかけた。


「はわわ……」


一瞬俺の身体が緩んだのを見逃さず、つくばさんは、俺の手を取り、自分の胸元へと導いた。

着物の襟の合わせ目、心臓の鼓動が直接伝わる場所。


「ねぇ、わかるでしょ?私の心臓、こんなにうるさいの……あなたの『熱』が欲しいって、叫んでる。

ねえ、灯くん。これは芸術よ。……この香りと共に、共犯になりましょう?」


その言葉は、甘い誘惑であり、逃げ場のない呪詛のようだった。


「俺にそんなもん……ない」


俺は、彼女の体温と、まとっている魔的な香りに包まれ、意識が遠のきそうになった。

つくばさんはつくばさんの才能で作品を作り上げたはずだ。

俺は近くにいて、好き勝手なことを言っていたに過ぎない。


「私の弟って、こんな強情だったかしら……」


ラベンダーカラーの前髪が俺の頬をくすぐると、香りが濃密さを増した。


ダメだ。この香りに飲まれたら、二度と元の生活に戻れない。

だが、俺の本能は、その退廃的な美しさに魅入られていた。

俺は、彼女の体温と香りに包まれ、理性が飛びそうになるのを必死で耐えた。


これは芸術なんだ。変な気を起こしちゃいけない。


そう自分に言い聞かせるが、彼女の熱と妖しい香りはあまりにも強烈だった。


「いやあ、すまんすまん」


不意に、店の外からドタドタという足音と、日立先生の声が聞こえた。


「チッ……」


つくばさんは、あからさまに舌打ちをし、パッと俺から離れて、向かいのソファに収まった。

彼女の顔から徐々に「紅」が引いていき、いつものつくばさんに戻っていった。


「……続きはまた今度ね、灯くん。この『横丁』が完成するまで、時間はたっぷりあるわ」


彼女はそう囁くと、何事もなかったかのように書類入れから手続き書類を並べた。

ソファに深く沈み込んだままの俺は、荒い息を整えた。

スタッフルームに入ってきた先生は、つくばさんの隣にドカリと座る。


「すまんな、つくば。灯くんに説明できたか?」


「うん、大丈夫よ、お父さん。ね?灯くん?」


手のひらには、つくばさんの心臓の鼓動の感触が、火傷のように残っている。

俺は、つくばさんの行動を「芸術と役のへの没頭」だと無理矢理納得して、自分のドキドキを誤魔化した。


あぶなかった。


それにしても、芸術家、いや、つくばさんって、あんなに情熱的だったのか、と頭の中で必死に整理する。


「灯くん?」


怪訝な顔で、日立先生が覗き込む。


「い、いやあ、大丈夫です。た、楽しみすぎて……」


ホッとしたような表情の先生と、舌なめずりするように俺を見るつくばさんを前にして、俺は呆然と天井を見上げた。

遠くで電動ドリルの音と、ハチさんのバナナ売りの声が聞こえる。


これからしばらく、この場所で作業をするのか。


俺は、ワクワクする気持ちと同時に、逃げ場のない迷宮に足を踏み入れたような、奇妙な予感を感じていた。

【担当:稲毛先生(進路指導部/担任)】

ふむ、日立先生からの推薦か。よろしい、許可しよう。 我が校の生徒が地域活性化に貢献する……素晴らしいことだ。

だが、誉田。心して行けよ? このプロジェクトには、我が校が誇る『リサーチの鬼』も参加しているんだ。 ……そう、図書室にいる『あの子』だよ。 彼女の探求心は……少々、危険だからな


次回、第29話『不穏な推薦状と、銭湯の職人』 これで私の評価もアップだな。

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