第28話:紅《くれない》のモガと、黄昏(たそがれ)の純喫茶
振り返ると、そこには時代錯誤な美女が立っていた。
つくばさんだ。
彼女は、いつものオーバーオールではない。
大正ロマンを思わせる、銘仙の着物にフリルのエプロン、頭には大きなリボンをつけた、いわゆる「モダンガール(モガ)」風の衣装を身に纏っていた。
「つ、つくばさん? その格好……」
「私の指示などを理解して伝えるという、大事なポジションには、娘が適任だと思ってね。
モールの社員さんにはバックアップしてもらうことを条件に、つくばに頼むことにしたんだ」
やはり肉親の採用はバツが悪いのか、聞いてもないのに先生は言い訳をする。
「お父さんを手伝いながら、ここのスナックのママ役として街に出るの。
この街の空気を決めるのは私。どう? この時代の『退廃的な美』、似合うでしょ?」
彼女はクルリと回ってみせた。その動きは大きく、自信に満ちている。
芸術家特有のハイテンションなオーラを放っているが、アトリエや美大で見た雰囲気ではない。
純粋にこのプロジェクトとママ役を楽しんでいる、頼れるお姉さんといった雰囲気だ。
俺は純粋に、彼女の美しさと、この空間へのハマり具合に感嘆した。
「さて……灯くんはバイトとして来てもらうから、手続きが必要なんだが……おっ?」
日立先生のスマホがブーンブーンと震えた。
画面を見て眉をひそめる。手短に会話した後、胸ポケットにスマホをねじ込んで、
「すまん、ちょっとモールの人から呼び出しだ。つくば、灯くんの手続き、頼むな」
書類入れをつくばさんに渡し、小走りにスタッフルームを出て行く先生を見送る。
ドアが閉まり、ドタドタという足音が遠くなると、つくばさんは、待ってましたと俺の腕をグイッと掴んだ。
「んんっ……!」
触れた瞬間、彼女の身体がビクッと震えたのが、俺の腕を通して伝わってきた。
「つくばさん、ちょ、どうしたんですか」
今まで単に温かかった彼女の手のひらの温度が、一気に跳ね上がる。
「……あっ///」
つくばさんの動きが止まった。
彼女の瞳がとろんと濁り、潤み始める。
さっきまでの「自信満々な演出家」とは別人のようだ。
「……あふぅ」
呼吸が、しだいに浅く速くなり、顔が紅く染まってゆく。
「……やっと……捕まえた♪」
彼女が絞り出すように呟いた声は、熱に浮かされたように湿っていた。
これはスナックのママの演技じゃない。
何かが、彼女の奥底にあるものを発火させた。
気がつけば、つくばさんの周りの空気も、妙に暖かく、そしてぬめりとした粘り気を帯びたものに変わっている。
美大の時と同じく、果実を煮詰めたような香りが漂ってきた。
「……座って」
粘つくような声で話しかけるつくばさんは、スタッフルームの一番奥のソファに俺を押し込み、自分もその隣に、太ももが触れ合う距離で座った。
密着した太ももから、彼女の異常な体温が伝わってくる。
自分の置かれている状況に頭が追いつかない。
「つ、つくばさん、て、手続き……」
「そんなご大層なもんじゃないわよ。
普通のバイトと同じで、必要書類の案内とこの横丁の設定資料が数枚。読めばわかるわ」
ソファの前のテーブルに書類入れを放り投げ、俺にしなだれかかると、俺の鼓動が激しくなった。
顔が熱くなるのが自分でもわかる。
「灯くん。この空間に足りない『色』があるの。
それは、『満たされない恋人たちの吐息』よ。あなたに、それを描いてほしいの」
「いや、俺はエイジング塗装やセットの絵のメンテナンスとかが仕事じゃ……?」
俺の言葉を聞き流したつくばさんは、着物の帯の間から、小さなブリキの小箱を取り出した。
表面の塗装が剥げかけた、年代物のピルケースだ。劇団の小道具だろうか。
「これ、知ってる? 『口中香』っていうの」
「こ、口中香……?」
「ええ。昔の恋人たちが、密会する前に口に含んだ、秘密の仁丹。
……ほら、見て」
彼女が小箱を開けると、中には真紅の小さな粒が数粒、転がっていた。
それは薬というより、毒々しいほど鮮やかな宝石のようだった。
つくばさんは、その一粒を、自分の人差し指の腹に乗せた。
「この粒にはね、ジャコウと薔薇の香りが閉じ込められているの」
彼女は、その紅い指先を、わざとらしくゆっくりと自分の唇へと運んだ。
俺を舐めるように、舌が這い出る。
「んん……」
ぽとり。
紅い粒が、ぬめぬめと濡れた舌の上に落とされる。
「……ん」
つくばさんは、粒を舌の上で転がし、妖艶な笑みを浮かべた。
その瞬間、果実を煮詰めた香りと口中香が混ざり合い、甘く重たい香りが漂ってきた。
古びた化粧品のような、それでいて脳の奥を痺れさせるような、昭和の夜と言うべきの匂いだ。
「灯くん。……この香り、描ける?」
俺の目を見据えながら、彼女の顔が近づいてきた。瞳孔が開いているのが分かる。
その頬は、スタッフルームの蛍光灯に照らされて、内側から噴き出すような濃密な紅に染まっていた。
「つくばさん……お姉ちゃんっ……!」
心臓が破裂しそうにバクバクしている。つくばさんに圧倒されながら、飲まれないように抗う。
だが、俺は視覚だけでなく、嗅覚まで支配されていた。
彼女の吐息に乗った「口中香」の香りが、俺の理性を内側から溶かしていくようだ。
「描けないの? ……じゃあ、味わって」
つくばさんは、俺の襟元を掴み、顔を寄せた。
彼女の紅い唇の隙間から、さっきの紅い粒がチラリと見える。
「昔の人は言ったわ。言葉で愛を語るよりも、同じ香りを共有する方が、深い契約になるって」
「け、契約?……ちょ、つ、つくばさん……近いですって」
「近くなきゃ、移せないでしょう?」
彼女は、口移しをするかのような距離で、甘い息を俺の耳に吹きかけた。
「はわわ……」
一瞬俺の身体が緩んだのを見逃さず、つくばさんは、俺の手を取り、自分の胸元へと導いた。
着物の襟の合わせ目、心臓の鼓動が直接伝わる場所。
「ねぇ、わかるでしょ?私の心臓、こんなにうるさいの……あなたの『熱』が欲しいって、叫んでる。
ねえ、灯くん。これは芸術よ。……この香りと共に、共犯になりましょう?」
その言葉は、甘い誘惑であり、逃げ場のない呪詛のようだった。
「俺にそんなもん……ない」
俺は、彼女の体温と、まとっている魔的な香りに包まれ、意識が遠のきそうになった。
つくばさんはつくばさんの才能で作品を作り上げたはずだ。
俺は近くにいて、好き勝手なことを言っていたに過ぎない。
「私の弟って、こんな強情だったかしら……」
ラベンダーカラーの前髪が俺の頬をくすぐると、香りが濃密さを増した。
ダメだ。この香りに飲まれたら、二度と元の生活に戻れない。
だが、俺の本能は、その退廃的な美しさに魅入られていた。
俺は、彼女の体温と香りに包まれ、理性が飛びそうになるのを必死で耐えた。
これは芸術なんだ。変な気を起こしちゃいけない。
そう自分に言い聞かせるが、彼女の熱と妖しい香りはあまりにも強烈だった。
「いやあ、すまんすまん」
不意に、店の外からドタドタという足音と、日立先生の声が聞こえた。
「チッ……」
つくばさんは、あからさまに舌打ちをし、パッと俺から離れて、向かいのソファに収まった。
彼女の顔から徐々に「紅」が引いていき、いつものつくばさんに戻っていった。
「……続きはまた今度ね、灯くん。この『横丁』が完成するまで、時間はたっぷりあるわ」
彼女はそう囁くと、何事もなかったかのように書類入れから手続き書類を並べた。
ソファに深く沈み込んだままの俺は、荒い息を整えた。
スタッフルームに入ってきた先生は、つくばさんの隣にドカリと座る。
「すまんな、つくば。灯くんに説明できたか?」
「うん、大丈夫よ、お父さん。ね?灯くん?」
手のひらには、つくばさんの心臓の鼓動の感触が、火傷のように残っている。
俺は、つくばさんの行動を「芸術と役のへの没頭」だと無理矢理納得して、自分のドキドキを誤魔化した。
あぶなかった。
それにしても、芸術家、いや、つくばさんって、あんなに情熱的だったのか、と頭の中で必死に整理する。
「灯くん?」
怪訝な顔で、日立先生が覗き込む。
「い、いやあ、大丈夫です。た、楽しみすぎて……」
ホッとしたような表情の先生と、舌なめずりするように俺を見るつくばさんを前にして、俺は呆然と天井を見上げた。
遠くで電動ドリルの音と、ハチさんのバナナ売りの声が聞こえる。
これからしばらく、この場所で作業をするのか。
俺は、ワクワクする気持ちと同時に、逃げ場のない迷宮に足を踏み入れたような、奇妙な予感を感じていた。
【担当:稲毛先生(進路指導部/担任)】
ふむ、日立先生からの推薦か。よろしい、許可しよう。 我が校の生徒が地域活性化に貢献する……素晴らしいことだ。
だが、誉田。心して行けよ? このプロジェクトには、我が校が誇る『リサーチの鬼』も参加しているんだ。 ……そう、図書室にいる『あの子』だよ。 彼女の探求心は……少々、危険だからな
次回、第29話『不穏な推薦状と、銭湯の職人』 これで私の評価もアップだな。




