33 和也にできること
鹿島製薬を後にし、佐々木と真理子と共に和也の家へ向かう頃には、時刻はすでに七時を過ぎていた。
「夕飯、食べていくか?」
「いや、今日は父さんの帰りが早いから」
「そっか……。送ってくれてありがとう。また明日な」
「ああ」
遠ざかっていく佐々木の背中を見つめる。あいつは今、何を思っているのだろう。母親の死の真相を知り、それで満足しているのか? いや――鴻池雅也への憎しみを募らせているかもしれない。今日、佐々木は父親と食事をする。そのとき、真実を伝えるのだろうか? だが、父親がそれを信じるとは限らない。
もし和也が真相を暴いたせいで、佐々木がこれまで以上に辛い思いを抱えながら生きていくことになったら――。
「和也くん」
真理子が気遣わしげに声をかける。
「寒いでしょう? 早く家に入りましょう。風邪をひいてしまうわ」
「……はい」
促されるまま玄関の扉を開けると、温かな空気がふわりと流れ込んでくる。
「おかえりー! どこ行ってたんだ? もうすぐ夕飯できるぞ! 今日のメインは唐揚げだって!」
優也がハイテンションで駆け寄ってきた。
「ただいま」
「……なんかあった?」
ふいに低くなる声。普段はちゃらんぽらんなくせに、和也が何か悩んでいると、優也はすぐに気づく。
「いや、大丈夫」
「そうか? ま、早く手ぇ洗ってこいよー」
軽く肩を叩き、優也はリビングへと戻っていった。
「真理子さん。後で話したいことがあります」
隣に立つ真理子にそっと声をかける。
「わかったわ。部屋で待ってるわね」
和也の部屋へと向かう真理子に続いて、リビングへと向かった。
佐々木が家に着いた頃、父親はもう帰っているのだろうか。それとも、あの広い家で一人、夕飯を作りながら帰りを待っているのだろうか。
一人でキッチンに佇む佐々木の姿を思い浮かべ、胸が締めつけられた。本人は慣れっこで、寂しさも悲しさも感じていないのかもしれない。けれど今夜くらいは、父親が先に帰宅し、温かな食卓が待っていてほしいと願わずにはいられなかった。
夕飯を終え、風呂を済ませて部屋へ戻ると、真理子がベッドの上に腰掛けていた。
「お待たせしました」
「いいえ。それで、話って何かしら?」
真理子の真っ直ぐな視線に、少したじろぐ。だが、意を決して口を開いた。
「あの、俺が幽霊を見たのは真理子さんが初めてです。だから他の幽霊については知らないし、これは憶測かもしれません。でも、幽霊になる人って、この世にまだやり残したことがあるんじゃないですか? そして、そのわだかまりがなくなった時、成仏するんじゃないかと……」
「そうかもしれないわね」
「さっき、真理子さんは自分の死の真相を知って満足したって言っていました。でも、実際にはまだここにいる。まだ、心残りがあるんですよね?」
真理子は黙ったまま動かない。
「警察に行っても、真理子さんが生き返るわけじゃない。それは分かっています。でも、このままだと俺と佐々木以外、真理子さんが自殺したと誤解し続けることになります。……優作さんも」
その名前を出した瞬間、真理子の肩が小さく震えた。
「真理子さんの本当の願いは、あなたが自殺したという世間の誤解を解くことじゃないんですか? それなら――」
「でも、どうしようもないじゃない!」
和也の言葉を遮るように、真理子が声を荒げた。
「――私、今日の朝、鴻池くんの家を覗きに行ったの。一くんは高校があるはずなのに、部屋に閉じこもったままだった。もう何年も、まともに学校へ行けていないみたい。私の事件がきっかけかもしれないわ。お姉ちゃんは大学三年生で、ちょうど就活中だった。両親の離婚を見てきたせいかしらね、自分は一人でも家庭を支えられるくらい、稼ぎたいって言ってた。お母さんは元々専業主婦だったようだけど、離婚してからはパートを始めて、子供たちを養ってる。私の事件が、あの家族からたくさんのものを奪ったのよ。また事件を掘り返したら、彼女たちが立て直したものが全部無駄になってしまう。悪いのは鴻池雅也で、家族は何も悪くないのに」
捲し立てる真理子を前に、和也は言葉を失った。
「だから、もういいの。幸介が真実を知ってくれただけで、十分よ」
確かに、父親が犯罪者となれば、鴻池一はさらに自分を責めるかもしれない。姉は、就職活動どころではなくなるだろう。でも――。
「真理子さん。俺の体に入ることって、できないんですか?」
「え……?」
「俺の体を一時的に乗っ取ることはできませんか?」
幽霊が生者の体に乗り移る――映画や漫画では定番の話だ。
「そんなこと、試したこともないわ」
「じゃあ、今試してみてください」
「何を言ってるの? うまくいく保証もないし、第一、戻れなくなったらどうするのよ!」
ベッドの上で真理子は戸惑いの表情を浮かべ、首を横に振る。
そんな彼女に向かって、和也は右手を伸ばした。肩に触れようとすると、手がすり抜ける。しかし、その部分だけ感覚が鈍くなった。薄く冷たい膜に覆われているような、妙な感触がある。
「すみません」
断りを入れ、今度は右腕全体を真理子の肩に差し入れた。すると、確実に腕の感覚が消えた。
「ちょっと、何をして――」
真理子が言葉を終える前に、和也は彼女の上に自分の体を重ねるように座った。
その瞬間、全身の感覚がなくなり、視界が白い光に包まれた。