32 事件の真相
和也はアルバムのページを見つめたまま、携帯を取り出した。鴻池との別れ際に電話番号を交換したのだ。佐々木の視線を感じながら、少し迷ったものの、結局発信ボタンを押す。
コール音が数回鳴った後、相手が出た。
『……なに?』
不安そうな声だった。一瞬、どう切り出すか迷ったけれど、結局そのまま口にした。
「君の父親のことを聞きたいんだけど」
短い沈黙の後、受話器の向こうから小さくため息が漏れる。
『なんで……?』
「ちょっと調べたいことがあって。……お前の親父って、今どこに住んでる?」
『知らない。離婚してから会ってないし』
やっぱり、離婚していたか。
『……でも、職場ならわかる。鹿島製薬だよ。もともとは研究職だったらしいけど、今もそこで働いてるかはわからない』
佐々木と目を合わせる。無言のうちに情報を確認し合い、鴻池に礼を言って通話を切った。
「……製薬会社、か」
「研究職なら研究所にいる可能性が高いけど……それだと、結構遠そうだな。今日はダメもとで本社のほうに行ってみよう。部門移動ってパターンもあるし、情報くらいは掴めるかもしれない」
「今から行くつもりなのか?」
「ああ。今すぐ、確かめたい」
最寄り駅までの道を急ぎながら、佐々木がスマホでルートを検索してくれる。鹿島製薬の本社は、電車を乗り継げば四十分ほどで着ける距離だった。
佐々木に続き、ICカードで自動改札を通る。真理子はするっと後ろから付いてきた。なんだか今日は、彼女の表情がいつもより暗い気がする。俯きがちで、視線も合わない。今から会うのが自分を殺した犯人かもしれないのだから、当然か。
電車の中では、三人とも無言だった。窓の外に広がる景色をぼんやり眺める。何かがはっきりするのか、それともただの勘違いに終わるのか――。
途中で乗り換えが一度。ホームに吹き抜ける風はどこかひんやりしていて、真理子の存在と重なるように感じられた。
そうして、ビル街の中に建つ鹿島製薬の本社が目の前に現れたとき、背筋には、冷たい汗が流れていた。
――ここで、すべてがわかるのかもしれない。
会社の受付で、なるべく落ち着いた声で言った。
「すみません、鴻池雅也さんに忘れ物を届けに来たんですけど」
受付の女性が軽く首を傾げる。
「お約束はされていますか?」
「いえ、でも急ぎで渡さないといけなくて……。少しだけでいいので、お時間をいただけませんか?」
そう言うと、佐々木も「ご迷惑はかけません」と淡々と付け加えた。二人の雰囲気がただ事ではなかったからか、受付の女性は一瞬戸惑ったあと、内線でどこかに連絡を取る。
「少々お待ちください」
ほどなくして、建物の奥の方から一人の男が現れた。
――鴻池雅也。
背は高く、スーツはきちんと着ているのに、どこかに影を引きずっているような雰囲気があった。
だが彼が現れた、その瞬間だった。
「……!」
真理子が、息を詰めた。
肩がかすかに震えている。顔から血の気が引いていた。
「どうしました?」と小声で尋ねるが、真理子は返事をしない。ただ、彼女は鴻池雅也を凝視したまま、震える手をきつく握りしめていた。
「……思い出した」
絞り出すような声だった。
「この人よ……私を川に突き落としたのは……」
心臓がどくりと跳ねた。
――確定だ。
思わず目を細め、雅也を睨む。だが相手は、ただ訝しげにこちらを見ているだけだった。当然だ。真理子の声は彼には届かない。
「……君たち、誰だ?」
低く、警戒心を隠そうともしない声。
まずい。ここで怪しまれるわけにはいかない。
「あ、すみません。忘れ物を届けに来たんですけど……人違いだったみたいで」
「……そうか」
雅也はしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて興味を失ったように言った。
「もういいか?」
無言で頷き、佐々木と並んでその場を離れ、ロビーを静かに抜けて、外へ出る。
冷たい風が頬を撫でた。駐車場の脇で立ち止まり、ふと後ろを振り返った。
まだ――雅也は、建物の中からじっとこちらを見ていた。
「……警察には言わないで」
唐突に、真理子の声が響いた。
「……どうしてですか?」
驚いて振り返る。彼女は、穏やかな、どこか諦めたような表情を浮かべていた。
「彼の家族には、罪がないわ。加害者家族にしてしまうのは、酷だもの。それに、今さら告発しても、私が生き返るわけじゃない。騒ぎになれば、また家にマスコミが押し寄せるかもしれないし……私はただ、自分の死の真相を知りたかっただけなの」
ふっと微笑んで、真理子は言った。
幽霊になってもなお、彼女は誰かを裁くためではなく、守るための道を選ぼうとしていた。
言葉を失った。何か返そうとして、口を開きかけたが――何も言えなかった。
佐々木が怪訝そうに見てくる。
「……母さんは何て言ってる?」
和也は真理子の言葉を思い返し、慎重に言葉を選ぶ。
「……あの人に突き落とされたのは間違いない。でも、彼の家族を加害者にしてしまうのは可哀想だって。真理子さんは、自分の死の理由を知りたかっただけで……もう、これ以上騒ぎにはしたくないって」
佐々木は、しばらく黙っていた。
「……そうか」
ゆっくりと息を吐くと、ポケットに手を突っ込んだまま、空を見上げた。
「母さんがそう言ったんなら、仕方ないな……」
「でも……これで、本当にいいのか?」
佐々木が今、どんな顔をしているのか――知りたかった。目を凝らすが、その輪郭すら曖昧で、見えない。
「……もう六時だ。帰ろう」
「……分かった」
和也は最後にもう一度だけ、会社の建物を振り返る。
――本当に、これでいいのか?
胸の奥に、形のない重たいわだかまりを残したまま。
二人は歩き出す。その背を、真理子が静かに追いかけていった。




