29 真理子の話
「久しぶり、和也くん」
「うわぁっ!」
いきなり背後から声をかけられ、心臓が跳ねた。慌てて振り返ると、そこには二日ぶりに見る真理子が立っていた。
「だから、驚かさないでくださいってば!もっと普通に出てきてくださいよ!」
思わず語気が荒くなる。しかし真理子は、まるでいたずらが成功した子供のような笑みを浮かべているだけだった。
「だって和也くん、反応が可愛いんだもの。ごめんね?」
どう見ても悪びれている様子はない。
「もういいです。それより、なんで昨日は出てこなかったんですか?それまでは毎日ついてきていたのに」
「うーん……その前にひとつ質問。ここ最近、急に眠くなったり、朝起きるのが辛かったりしなかった?」
「え……なんで分かったんですか?確かに最近、というか昨日まで、すぐ眠たくなる感じでしたけど」
和也が目を細めて問い返すと、真理子は少し申し訳なさそうな顔をした。
「やっぱり……それ、多分私といる時間が長かったからだと思うの」
「どういうことですか?」
真理子は意を決したように和也を見つめた。
「面倒だから、最初から全て説明するわ。私が死んだ後のこと。――私はある時、気がついたら、橋の上に立ってたの。そこに立っているのがすごく怖く感じて、すぐその場を離れた。でも行くあてもなくて、なんとなく歩き始めたのよ。それで、最初に出会った人に話しかけてみた。でも、その人はまるで私の声が聞こえていないみたいに素通りしていったの。次の人も同じ。その次の人も。まるで自分が透明人間になったみたいで、それがどんどん怖くなってきて……」
彼女の声は淡々としていたが、その奥に押し殺した感情が垣間見えた。
「それで、次に来た人に触れようとしたの。でも、スカって、手がすり抜けてしまったのよ。誰に触ろうとしても同じ。私は、ああ、幽霊なのかもって、その時気がついたの。そしてその瞬間、生きていた頃の記憶が頭になだれ込んできた。孝介と優作さんのこと、両親のこと、音大でのこと、ピアニストだったこと、音楽教室のこと、いろんなこと……。でも、自分がなぜ幽霊になったのか、どうして橋の上にいたのか、その理由だけは思い出せなかったのよ」
――つまり、自分が幽霊だと自覚した瞬間に、生前の記憶が蘇ったということか。
「とりあえず、住んでいた家を見に行ってみようと思った。でも、家の場所は全く思い出せなかった。それで仕方なく歩き続けていると、不思議なことに気づいたの。赤ちゃんや、犬、猫の動物の中には、私に反応する子がいた。ずっと透明人間だったから、それがすごく嬉しくて。特に、私に笑いかけてくれた赤ちゃんには毎日会いにいってしまったの」
真理子は苦笑した。
「でも、日に日に赤ちゃんは寝ている時間が多くなって、ご両親が心配し始めたの。それで、もしかしたら私が原因かもと思って、犬や猫でも試してみたの。そしたら案の定だった。私と長く一緒にいると、どうやら体力を奪ってしまうみたい。だから、それ以降は赤ちゃんや動物には執拗に関わらないようにしたのよ。そんなわけで、和也くんからも一日離れてみたんだけど」
衝撃的な告白に、思わず言葉を失った。それでも話は続く。
「その後もしばらく、行くあてもなく徘徊していたら、ある日いきなり見慣れた景色が飛び込んできたの。それでやっと家の場所を思い出して帰ったんだけど……そこには報道陣が押し寄せていて、怖くて逃げ出したの。数日後、もう一度行った時には数は減ってたけど、記者がまだいて……ちょうど孝介が小学校から帰ってきたところだった。記者たちが孝介を囲んで、質問攻めにしていたのを見て……本当に辛かった。『うちの息子に何するの!』って止めようとしたけど、何もできなかった。記者たちの会話から、私が“自殺”したことになっていると知ったわ。でも私が自殺なんてするわけない。違うって何度も叫んだ。もちろん無駄だったけど」
真理子は静かに息を吐いた。
「その後、優作さんは孝介を転校させて、一時的に姉夫婦の家に居候させたの。彼をあの家に残しておくのは危険だと思ったんでしょうね。そして……年月が経ち、私が和也くんを見つけたのよ」
「改札でですよね。あの時、真理子さんは俺に“久しぶり”って言ったんだ」
和也は手に持った写真を掲げた。
「これ……俺と佐々木ですよね」
真理子は写真を見つめ、静かに頷いた。
「ええ。幸介、すごく楽しそうに笑ってる。……和也くんもね」
思わず写真を握りしめる手が震えた。
「でも俺は、思い出せないんです。事故のせいで……佐々木はきっと全部覚えているのに」
「忘れていても、こうしてまた仲良くなったじゃない。それってすごいことよ」
確かに、記憶はないはずなのに、佐々木のそばにいると安心する。まだ自分の中に、記憶の種は残っているということなのだろうか。




