第12章 踏みつけられた心
「次は私と一緒に踊ってくれないか、ハーディン侯爵令嬢」
クライス王子がにこやかに微笑みながらレイラに言った。
「通常三曲は婚約者の方と踊るのがしきたりなのではないですか?」
「まあそうなんだけどね。婚約者のエリザベスがどうも足が痛いらしくて、少し休ませたいのだよ」
『やっぱり態とエリザベス様の足を踏んだのではないの?
それにしてもよくシャアシャアと言えたものね。貴方が踏んだからエリザベス様は足を痛めたんじゃないの! 許せないわ』
どうにか顔に笑みを貼り付けながらも、レイラは腸が煮えくり返る思いだった。
『この王子、婚約者を何だと思っているのよ。
私達婚約者候補に向かって、君達は王子妃として不適合だと言って、貴方自身がエリザベス様を選んだんじゃないの。
そして国王陛下や兄上である王太子様を支える人間になるべく、この六年共に手を合わせて共に精進してきたのではなかったの?』
クライス王子が入学時に自分に一目惚れしたという事実を知ったのは、今から三か月前のことだった。
確かに生徒会でやたらと話しかけられていたような気はしていたが、まさか自分が言い寄られていたとは思ってもみなかったレイラだった。
「君は人のことは良く見ているのに、自分に関することに対しては何故か鈍いからね」
バートランドにそう言われてレイラは返す言葉がなかった。自分の気持ちだけでなくノーランの気持ちにも疎かったせいで、友人達には散々迷惑をかけてきたのだから。
ただしこれは育ち方のせいだった。人の顔色を窺わなければレイラは生きてこれなかった。そしてその反対に自分自身に鈍感でいなければ、自分の心を守れなかった。
しかし結局はそのせいで、寧ろ誰に何を言われようが好きなことは好き、大衆には迎合しない、男子のようだと評される性格になったレイラだったのだ。
それにしてもまさか第二王子が自分に好意を持っているとは……レイラは当初信じられなかった。王子の好みと言われていたタイプと余りにも自分が違っていたからだ。
しかしレイラに一目惚れをしたクライス王子は、当初はすぐに自分の思いを彼女に告げようとしてたらしい。
しかし相談した側近のハインツにたしなめられて、王子は一旦はレイラと距離をとったのだ。
とはいえすぐに恋心が消えるわけもなく、婚約者と逢っていても気もそぞろになることが増えていった。
それまで自分を溺愛してくれていた婚約者の変貌に、もちろんエリザベスはすぐに気付いて彼の浮気を疑った。
そして彼女は次第に、王子の浮気相手探しに躍起になっていった。
自分から王子を奪おうとする者など絶対に許せない。エリザベスにとってクライス王子は初恋の相手であり、ともに厳しい王族教育を共に学んだ戦友でもあった。
それなのに何の苦労もしていない者などに奪われてなるものか。
これまでエリザベスが血を吐くような努力をしてきたのは、全てクライス王子の側にいるためだったのだから。
愛するが故に嫉妬の炎を燃やしたエリザベスだったが、何事にも程度というものがある。
クライス王子がただ話をしていただけのご令嬢にさえ、エリザベスは激しくご令嬢を罵倒して、二度と殿下に近づくなと喚き散らした。
このことにクライス王子はすっかり興醒めしてしまった。
多少我儘で勝ち気なところも、たまに嫉妬をすることも、恋をしていた時にはかわいらしいと思っていた。
しかし、恋心が薄れてくれば、ただただそれは鬱陶しく、面倒くさいと感じるだけだった。
それに、学園に入学して多くの優秀な女生徒達を目の当たりにすると、お妃教育に四苦八苦しているエリザベスを段々と見下すようになっていった。
クライス王子は学園に入学して以来、学年の中でもいつも十位以内に入る成績を残してきた。しかもそれは、王族としての勉強と公務の仕事を熟した上でのこの結果である。
これは大したものであった。
実のところ王子は天才であったのだ。あまり努力をせずとも学問も剣も体術もマスターすることができた。本気になれば学園のトップなど簡単になれたはずだ。
しかしそんな天才的な彼だったからこそ、何度も同じ失敗を繰り返していたエリザベスに辟易としていた。
そして見目だけで婚約者を選んでしまったことを後悔した。今だったらあのハーディン侯爵家令嬢のレイラを選んだのにと。
「結婚相手を選ぶのはまだ早過ぎる。そう言った母が結局は正しかったのだ。
この誤った婚約は、まだ幼い自分に選択させた父親のせいだ。
元々父親である国王が悪いのだから、今度は国王がその権力を使ってでもエリザベスに自分との婚約を解消させ、その後レイラと婚約を結んでくれるべきだ。そう思わないなかい? ハインツ……」
第二王子は、普段から自分勝手な思考をする若者だった。
とはいえ婚約破棄されるほどの瑕疵のないエリザベスを、一方的に断罪して婚約破棄するのは難しいことくらい王子にもわかっていた。
そこで彼女がいかに王子妃に相応しくないのか、それを周りの者達にわからせなければならないと彼は思ったのだった。
✽✽✽
そこでクライス王子は、エリザベスの悪い噂を態と流したのだ。虚実を上手く混ぜ合わて。
エリザベス嬢は王子とただ話をしていただけの令嬢に嫉妬をして、彼女を人前で罵ったり、怒鳴りつけたりしている……
確かにエリザベスはそんなことを少しだけしていた。
しかし、ドレスにわざと飲み物をかけたり、故意に転ばせたりするとか、そんな陰湿で危険なことをエリザベスはしたことがなかった。
そして近頃、エリザベスが試験でカンニングしていたというあり得ない噂まで流れていた。
入学当時から比べるとエリザベスの成績がかなり上がっていたからだ。
それにエリザベスは派手好きで目立ちたがり屋で贅沢好き。高いドレスやアクセサリーなど高価な物ばかり強請ってくるので、王子自身の予算はそのほとんどが婚約者の費用に充てられている……
これも嘘ではないが大げさする話だった。
最近では学園や社交界でもそれらの噂が広まっていて、クライス王子とエリザベスの婚約はそのうちに解消されるのではないか、という声があちらこちらから聞こえてくるようになっていた。
しかしだからといって、学園在学中に婚約解消をしてはことが大きくなってしまう。それに婚約解消をしてすぐにレイラに結婚を申し込むような真似をしたら、きっと不義を疑われるだろう。
それだけは避けたいとクライス王子は思ったようだ。
古今東西、式典やパーティーなどで婚約破棄をした者達は、そのほとんどが断罪され、幽閉か平民に落とされて城から放り出されると相場は決まっていた。
だから、エリザベスとの婚約破棄は行事が全て終了してからだとクライスは思っていたのだった。
しかしそのクライスの計画はローザや側近のフランツにとっくにばれていた。
だからこそローザやバートランドはレイラとノーランの結婚を急がせたのだった。
✽✽✽
「クライス殿下、エリザベス様をお休みさせたいのなら、婚約者であられる殿下が一緒にいて差し上げるのが宜しいかと思いますわ。差し出がましいですが」
とレイラは態とらしく周りを見渡し、これが忠告だと示しながら小さな声でクライス王子に言った。
こんな衆人環視の元で婚約者を放置すれば、殿下のためになりませんよと知らせるために。それがたとえ評判が悪い婚約者だとはいえ。
するとクライス王子はハッとしたような顔をした。しかし、それでもみれんがましくこう言い募った。
「しかし、君は次は誰と踊るんだね? まさかカーティエ伯爵家令息ではないよね? 彼には婚約者がいるのだから」
「はい、もちろんでございます。お二人とも私の大切な友人です。
お二人は半年後に結婚式を挙げられます。ですから、妙な噂を立てられるような真似をするつもりはありませんわ」
「では誰と…」
「それは彼女の夫である私ですよ、殿下。これから妻とは三曲続けて踊るつもりですから、その後に他の方からお誘いを受けても、恐らく彼女は疲労困憊でお受けするのは無理だと思います。
それでは失礼します、殿下。行こう、レイラ」
突然後ろからレイラの肩を優しく抱き締めながら、ノーランが言った。
レイラは振り返って夫の顔を見ると、まるで白薔薇のように華やかで眩い笑みを浮かべた。そして再びクライス王子に顔を向けると、今度は儀礼的な笑みを浮かべ、
「それでは失礼致します。エリザベス様を大切になさって下さいね」
と告げて頭を下げると、エリザベスやバートランドやユリアに軽く会釈してその場を離れて行った。
クライス王子は彼らを呆然と見送った後で我に返り、バートランドに詰め寄って彼を問い詰めた。
「彼女の夫とはどういうことだ!」
「どうって、その言葉のまんまですよ?
ノーランはレイラ嬢改めカーティエ夫人の夫だという意味です。あの二人は既に結婚式を挙げている正式な夫婦なんですよ」
「そんな話は聞いていないぞ。い、いつ結婚をしたんだ?」
「二か月前です」
「そんなこと、ハーディン侯爵は何も言っていなかったぞ。レイラ嬢は誰とも付き合っていないし、付き合うなと命じていると。だから安心していたのに」
「ハーディン侯爵の言うことを真に受けたのですか? あの人はレイラ夫人のことなど何一つ知ってはいないというのに?」
バートランドが大仰に驚いてみせると、クライス王子は疑問符を浮かべた。
「何故何も知らないのだ、父親なのに」
「ハーディン侯爵は末娘を虐待して放置していたんです。
離れに押し込めて使用人のように働かせ、食事を共にしたこともなかったそうですよ。もちろんろくに会話もしたことはなかったはずですよ。
ですから娘のことなんて何一つ知る由もないでしょうね」
「なっ! 私に嘘八百並べるとはなんということだ。それに虐待だと! 許せん」
クライス王子は怒り心頭で保護者席にいたハーディン侯爵を鬼の形相で睨み付けた。
そしてその後は、虚しく幸せの絶頂で微笑み合っている新婚カップルの息の合ったダンスを見つめ続けたのだった。
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