桜木のコーヒー
「中山。コーヒー飲まないか?」
桜木から届いたその短い連絡に、俺の頬は自然と緩んだ。あいつの数少ない趣味の一つ、コーヒー。
生徒たちには鬼教官として恐れられているが、桜木の宿舎の部屋にはいつも、厳格なあいつのイメージとは裏腹に、驚くほど芳醇で優しいコーヒーの香りが漂っている。
「お疲れ様。これから行っていいか?」
そう返信すると、「今からかよ、すぐにコーヒーは入れれないぞ」なんてぶっきらぼうな文句が返ってくるが、それが桜木なりの歓迎であることは長年の付き合いで分かっていた。部屋を訪ねると、案の定、あいつは少し面倒そうな顔をしながらも、すでに湯を沸かして待っていてくれた。
「インスタントで少し味は落ちるがこれはなかなか美味いぞ。」
差し出されたマグカップから立ち上る湯気が、冷え切っていた俺の心をゆっくりと解きほぐしていく。 あの地獄のような戦場や、病院の消毒液の匂いに追われていた日々を思うと、この何気ない時間がどれほど尊いものか。
「ありがとう。今日、小早と関は映画に行ってるぞ」
「へぇ……。デートか」
「関に言わせたら違うんだとよ」
「デートだろ」
「だよなあ」
顔を見合わせ、俺たちは思わず声を漏らして笑った。 あの凄惨な襲撃や大規模侵攻を生き延び、一度は命の灯火が消えかけたあの子たちが、今こうして「デート」なんて言葉に一喜一憂する日常を過ごしている。その事実が、何よりも俺をホッとさせた。
それきり会話が途切れても、部屋には気まずさの一片もない心地よい空気が流れていた。 かつて五人班の中で俺たち二人だけが生き残り、後悔と罪悪感に身を焼かれながら、絶望の中で支え合っていた頃とは違う、穏やかな静寂だ。
「久しぶりだな。2人でゆっくりコーヒー飲むなんて」
「そうだな」
桜木が、使い込まれたコーヒーミルを愛おしそうに眺めながら呟いた。
「突然でなければ、今度は豆挽いていいやつ入れてやる」
「ありがとう」
次はもっと美味い一杯を。そんな約束ができる今の時間が、たまらなく愛おしく感じられた。 窓の外に広がる立川の景色を眺めながら、俺は温かいコーヒーを幸せを噛み締めるようにゆっくり飲んだ。




