何してんだ
視界が、いつもより暗く澱んで見える。
あの日――立川士官学校が襲撃され、安宅や関内、そして多くの教え子たちを失ってから、俺の身体はどうしようもなく重い。もう身体に傷はないはずなのに、一歩外に出るためには、丸一日泥のように眠り続け、ようやく使い物にならない四肢を叩き起こす必要がある。
……小早、少しは顔色が良くなっていればいいが
小早は、見ていられないほど痩せ細ってしまった。身体に傷一つ負わなかったのが奇跡だと言われたが、あの子の心はあの日、瓦礫の下に置いてきてしまったのだろう。 何を食べても吐き戻し、ついには水すら受け付けなくなった身体は、かつて「神気タンク」と謳われ、のびのびと空を舞っていた頃の面影を完全に失っていた。
病院の廊下を進む。独特の消毒液の匂いが、俺の肺の奥にこびりついた「あの日」の鉄の匂いを呼び覚まそうとする。
小早の病室のドアを開ける。だが、そこには主のいない、整えられすぎたベッドだけがあった。
リハビリか検査か。そう思おうとした俺の目に、椅子に置かれた関の鞄が映る。その横に、乱雑に開かれたもう一つの鞄。
……これは。
中を改めると、そこには脱ぎ捨てられた小早の入院着と、関の私服が押し込まれていた。
心臓が嫌な音を立てる。小早は今、入院着を脱いでいる。関と一緒に、この部屋にいない。
嫌な予感が、冷たい汗となって背中を駆け抜ける。
「まさか……馬鹿な……やめろ、小早……っ!」
俺は屋上へと走った。
もし、あいつが今の身体で空を飛ぼうとしているなら。栄養失調で筋肉は落ち、立っていることすらやっとの、あの薄氷のような身体で。
屋上の重い扉は、不自然に半開きになっていた。
外に飛び出した俺の目に飛び込んできたのは、高く青い空と、そこを舞う二人の影だった。
「小早……っ!」
呼ぼうとした声は、絶望的な光景に遮られた。
空中で、小早の機動が不自然に揺らぎ、そのまま力なく落下していくのが見えた。 神力という「水」を貯める巨大な「箱」を持っていても、それを支える肉体が、もはや限界だった。
「小早ぁぁぁぁっ!!」
思考より先に、俺の神力が最大出力で爆発した。
自分の心が壊れることなど、もうどうでもいい。これ以上、俺の目の前で、俺の教え子が「墜落」するのだけは、絶対に許さない。
落下地点と地面の間に滑り込み、俺はあいつの羽毛のように、いや、それよりもずっと軽い身体を、衝撃ごと抱き止めた。
屋上に降り立った瞬間、俺の喉から、これまで抑え込んできた恐怖と絶望が怒号となって溢れ出た。
「お前ら! 何してんだぁぁぁぁ!!!!」
怒りで視界が真っ赤に染まる。隣で着地し、言葉を失って立ち尽くしている関を、俺は射殺さんばかりの目で見据えた。
「関! お前、小早の今の状況が分かっててやらせたのか!! 」
「中山少佐……」
「関!!」
俺が詰め寄ろうとしたその時、腕の中で震えていた小早が、掠れた声で制止の声を上げた。
「……教官、やめて、ください……。」
「小早っ!」
「私が無理を言ったんです。」
あいつのその言葉が、俺の心の堤防を完全に決壊させた。
自分を追い込むことに慣れすぎている。自分の命の価値を、あの日からずっと、お前は軽んじすぎているんだ。
「王子少尉は黙っていろ!!」
あえて階級で呼び、俺はあいつの言葉を叩き斬った。
手が震えている。怒りじゃない、怖くてたまらないんだ。
安宅も、関内も、みんな死んだ。
生き残った生徒も教官も後追い自殺が絶えない。
お前まで、俺の目の前から、消えてしまおうとするのか。
頼むから、もう俺を一人にしないでくれ。
腕の中で、小早が「っ!!!」と短く息を呑み、大きく目を見開いたまま固まっている。その身体は、やはり驚くほど軽い。少しでも力を込めれば折れてしまいそうなほどに。
「申し訳ありませんでした。」
隣で関が、絞り出すような声で深く頭を下げてくる。
その姿を見た瞬間、俺のなかで何かが激しく弾けた。怒りか、それとも底知れぬ恐怖か。
「お前らっ……お前らは……!」
喉の奥が熱く焼けて、言葉がうまく出てこない。叱り飛ばしてやりたいのに、視界が滲んで、ただ心臓が早鐘のように鳴り響いている。俺はたまらず、腕の中の小早と、立ち尽くす関の二人を、まとめて力任せに抱きしめた。
「――自分のことを、もっと大切にしろ!!」
叫んだ声が、自分でも驚くほど震えている。
教官が、生徒の前で涙なんて流せるわけがない。本当に辛い思いをしてきたのは、安宅や仲間を失い、ボロボロになってもなお空を追い求めてしまう、この二人なのだから。
「いいか、よく聞け。……残されることは、死ぬことよりもずっと辛い。だが、それでも生きるんだ。泥を啜ってでも、無様に這いずってでも、生きなきゃいけない。それが、お前たちの逃げられない宿命なんだ!!」
腕に、より一層の力がこもる。
かつて俺も、桜木も、同じ地獄を見て、生き残った罪悪感に身を焼かれてきた。 だからこそ、この子たちにだけは、あんな暗闇の中で一人、翼を折らせるわけにはいかない。
「お前たちは一人じゃない。二人きりでもない。だから無茶して生き急ぐな……っ」
吐き出した言葉は、皮肉にもそのまま自分自身への説教となって、俺の胸に突き刺さった。
俺も……そうだったな。お前たちを叱る資格なんて、本当はないのかもしれない……
屋上の眩しすぎる太陽の下で、俺は二人を抱きしめたまま、溢れそうになる嗚咽を必死に堪えていた。生き残ってしまった絶望を、いつか「生きていてよかった」と思える日が来るまで。俺は何度でも、この子たちを引き止め、現世へと繋ぎ止めてみせると心に誓いながら。




