水茶屋お西
「おい、お虞」
呆然と誰も居なくなった通りの真中に立ち尽くすお虞の背中に声が駆けられる。お虞が振り向けばそこには同心・藤の姿がある。
「藤さま、アタシ…」
藤の姿を見たお虞は普段の自分から戻ると途端にしおらしくなる。そのお虞に藤が言った。
「まあ、助けてもらった礼は言うぜ、ありがとうよ」
「はい…」
何かを言いたそうなお虞の姿。しかしお虞は何も言わず、先を進み始めた藤の後を黙って付いて行こうとする。その時である。
「もし、そこの御二方様」
凛と明瞭に頭に響き渡る声に振り向いた時、お虞はまるで雷にでも打たれたかのような衝撃を心に受けたのである。
店先にお虞達を向いて美女が二人居る。一人は歳も程々にこなし、年増といっていい頃だろうがその歳さえ魅力に転化したともいえそうな完成した美女の姿、その脇にはまだ年若く娘盛りをこれから迎えるであろうが既に今を持ってさえ男達を魅了して止まぬであろう色香を携えた娘がそこに立っていたのである。
儚さと芯の強さを同時に持ち合わせていそうな美女に、得ようとしても叶わぬ時の美をこれから一身に受けようとする娘、その姿にお虞は自分の求める究極の理想像を見出し、心奪われたのである。
その片方の美女の口が語りだした。
「此度の騒動は私供の店の娘、このお昭が元で起こしたものです。騒動のお詫び、また騒ぎを静めて頂いたお礼といってなんでしょうが、どうか奥で挨拶をさせてはもらえませぬでしょうか」
そう言って女が奥に二人を誘おうとしてお虞は気が付いた。同心・藤は体こそ前へと動いてはいたが、心ここにあらずといった府抜けた様子である。
『まあ藤様も男だから』
女であるお虞さえ魅了した美女二人を目にすれば、こんなにもなろうかとお虞は思うのだった。
奥の座敷で藤とお虞は女から挨拶を受けたのだが、女は名をお西、水茶屋を営んでいるとこたえた。そして先に名前を告げられた娘、お昭の事で事情を聞かされたのだが、それは女のお虞からみればうらやましくも憤慨モノの理由がこの度の騒動を引き起こしたのだと告げられた。
彼女にしつこく言い寄る客同士の揉め事が押さえきれなくなり、遂にはあのような騒ぎにまで発展したのだとお西は語るのである。
『いくらなんでも!』
お虞は心の中でそう呟いたのだが、横に座る同心・藤はといえば、
「然もありなん」
そう頷くばかりである。その時である。
「失礼いたします」
廊下から聞こえた銀鈴の響きのような声に振り向くと、そこには先ほどのお昭に加え、驚くべきことにもう一人の美しい娘の姿がある。
その娘はお昭に続くと優雅でありながらも隙の無い、流れるような動作で藤とお虞の前に茶菓子を差し出し、礼を取るとその姿を隠したのであるが、藤の顔は呆けたかのようにいつまでもその消えた廊下に向けられたままである。
「藤様、あの娘も私供の店に務める娘、名をお楊と申します」
まるで藤の心中を察したかのような言葉に藤が顔を赤らめた。
お虞はやはり藤も男なのだと、何か有ったら今の様子を元にからかってやろうかなどとも考えるのだが、その無邪気な考えを吹き飛ばすかのような大それた事を藤が唐突に仕出かしたのである。
藤は大げさに頭を畳につけるとお西に言うのである。
「お西どの! なにとぞこの藤の願い、聞き届けてやっては貰えぬか! このお虞なる女をぜひともお西どのの店に雇って戴きたい」
藤は大声でそう頼むと平身低頭、まるで殿様に拝謁するかのようにそのまま頭を下げ続ける。
これに驚いたのはお虞であった。慌てて藤に懇願し、止めてくださいと、無理ですからと懇願するのだが、藤はピクリとも動かずその頭を垂れ続けている。
しかしもっと驚いたのはお虞であった。
「判りました。もしお虞さんがそう望むのであれば、私供の店で預からせて頂きます」
お西はまるで菩薩のような微笑を浮かべると、藤とお虞を見ながらそう告げたのである。
お虞の目がこれでもかという程にまん丸に見開かれた。藤はこのうえもない喜びをその顔に刻んで面を上げた。
「ほ、本当に御座るか!!」
「うそ、まさか幾らなんでも!!」
お虞はあまりの事に混乱狼狽し、その頭の中にもこうなるに至った経緯が渦を巻いて駆け巡るのだがどうにも理由が判らない。
『目の前には女の身から見てさえ見蕩れる程の美女がおり、それに勝るとも劣らない美女としての素質を備えた娘が更に二人もいる。水茶屋の看板娘としてならこのうちの誰か一人がいるだけでも男達は涎を垂らして集まり商売繁盛間違いなし! そういう店であるのに、“なぜ、自分のような大女を雇う理由があるの?”』
お虞は思い切って、理由を訊ねてみた。
「あのぅ、申し出は嬉しいんだけども、もし、先ほどのお礼だけが理由なら止めて欲しいんだけど…」
「テメェ! 何を言ってやがるんだ! こんな機会、もう探したって出てこねえぞ!」
すかさず横に座る藤がそう怒鳴るがお虞も自分に納得がいかない事をする気にはなれなかった。
『情けで仕事を与えられたとしても、自分にその力が無ければ足手まといになる。自分の努力で克服できる課題なら克服もできようが、目の前にはどうあがいても太刀打ちできそうに無い美女が三人も控えている。そんな職場でどうしてお虞が役立つというの?』
するとお西は一瞬だけ驚いたかのように微笑みに細められた目を開いたかと思うと、美しくも真剣さを増した眼差しで語りだすのである。
「心配なさらなくても良いのですよ、お虞さん。私は貴方に秘められた力を買っているのです。もちろんそれはお昭やお楊に期待するそれとは別のもの、あなたにしか備わっていないものです」
「あだっしに備わっているって…、力意外にはとんと自信もないけど」
「判っているではありませんか」
お西がそう微笑みに目を細めると、お虞と藤の目は、それとは逆に大きく大きく見開かれたのである。
人気さっぱりのこの虞羅魔天狗、変身シーンを待たずにこのまま終わってしまうのでしょうか?
出世の坂から始まったこの作品、漢坂を登って終わりを迎えるのもそれはそれで有りなのかもしれませんね。
さて、次回の話はあるのかどうか。




