シーン10 お光が笑う理由
夜。
お光が帰る前。
静は彼女を呼び止めた。
「お光」
「何?」
「……後悔していないか」
「何を?」
「三枝家のことだ」
お光は少し考えた。
「後悔していない、とは言えないわ」
「……」
「父の名誉を取り戻したい気持ちは、今でもある」
「そうか」
「でもね、静」
お光は笑った。
「私、今の暮らしも好きなの」
静は黙っていた。
「お座敷でお客さんと話して、琴を弾いて、疲れたらここへ来て、由太のご飯を食べて」
「……」
「昔の私には、そんな暮らしは想像もできなかった」
静は小さくうなずいた。
お光は続けた。
「だから、ありがとう」
「……何度も言うな」
「何度でも言うわよ」
静は困ったように笑った。
「まったく……」
お光は戸口へ向かう。
そこで振り返った。
「ねえ、静」
「何だ」
「今度は私が、あなたを助ける番だからね」
静は答えなかった。
ただ、小さくうなずいた。
お光が帰ったあと。
由太が静に尋ねた。
「静さん」
「何だ」
「静さんって、昔から人を拾ってたんだね」
「……そうらしいな」
「お光さんも、俺も」
「ああ」
「じゃあ、次は誰拾うの?」
静は由太を見た。
「もう十分だ」
「なんで?」
「お前一人で手がいっぱいだからだ」
由太は笑った。
「そっか」
静は茶を飲む。
由太は台所へ戻る。
その背中を見ながら、静は思った。
七年前。
雨の夜に拾った一人の娘。
そして数年前。
鴨川のほとりで拾った一人の青年。
二人とも、今では自分の生活に欠かせない存在になっている。
静は小さくつぶやいた。
「……拾ったのは、私の方だったはずなのにな」
台所から由太の声。
「静さーん!」
「何だ!」
「明日の朝、お光さん来るって!」
「……またか」
「卵、三つ買っていい?」
静は少し考えた。
「ああ」
「やった!」
静は笑った。
三枝藩は消えた。
小野寺家の名誉が回復されるかどうかも、まだ分からない。
しかし、小野寺光という一人の娘は生き延びた。
今では、お光という名で笑っている。
その笑顔の始まりには、雨の夜に手を差し伸べた一人の女間者がいた。
そして、その笑顔を毎日のように引き出しているのは――。
何も知らずに飯を作る、一人のヒモ男児だった。
外伝8、お読みいただきありがとうございます。
今回は、お光の話を書きました。
今後も、メインストーリーとは離れた、由太が引き起こすエピソードを書いていきます。
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