1 赤い風船
建国祭を前にした穏やかな日常に、ひとつの影が差し込みます。
その影は、少女の運命を大きく揺らす予兆でした。
この国の滅亡は、一人の少年の死から始まった。
その夜、月が雲に隠れる。
真っ暗な街道を影が走る。
また一つ。また一つ。森に蹄の音がこだまする。
金属が、かすかに鳴った。
♢ ♢ ♢
赤い風船が、風に流されていく。
「マーサ、早く行きましょう。今日から広場には屋台が出るんでしょう?」
もうすぐ建国祭。
広場にはお祭りの準備が整い始めているはずだ。今年は王太子殿下が14歳になられ、初めて公の場に参加されるとあって、例年より賑わいをみせているらしい。
私はキッチンの椅子に腰かけ、足をぶらぶらさせながらマーサに話しかけた。
「お嬢様、お待ちください。旦那様のお昼のお支度だけ済ませますから」
「お父様はどうせまた食べないわ。研究を始めると、何日も出てこないもの」
「それでもご用意はしておかないといけません」
マーサは手際よくシチューを作っていく。マーサのシチューは絶品だ。いい匂いにお腹が鳴りそうになる。だめよ、これから広場の屋台で色々食べるんだもの。
気を紛らわせようとリビングに向かったその時。ふと、窓の向こうを赤い影がふわりと横切るのが見えた。
赤い風船が、風に押されてふわりと流れていく。
目で追うと、庭のリンゴの木に絡まった。
あれはきっと広場から流されてきたんだわ。
私は急いで中庭に出ると、いつものようにリンゴの木に登った。今日はお出かけ用のスカートが膨らんでいて、あちこちの枝に引っかかって邪魔だった。
「……取れるわ」
指先が風船に触れた瞬間——
バキッ——。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
足の下の感触が、消える。
えっ、えっ……?
落ちる瞬間に、赤い風船が太陽の光に透けた。
——豪奢な寝台。少年が、苦しそうに息をしている。
誰の記憶? 視界が歪む。意識が遠くなる——
——脳裏にフラッシュバックする、どこか遠い場所の記憶。
公園のベンチ。膝の上に広げた本。「戦場の赤い風船」
空気が、赤い。——毒だ。
知らないはずなのに、知っている。
私は……誰?
「……あと、7日」
その声は、誰のものか分からなかった。
♢ ♢ ♢
「霧野莉世、33歳、独身……こんなものかしら」
スマホの画面を消しながら、ぼそりと呟いた。
履歴書みたいに、自分の人生を数字で並べているだけの気がした。
傍らには、さきほど購入したばかりの本があった。「戦場の赤い風船」——普段は読まない分野なのに、書店でそのタイトルが目に入った瞬間、なぜか手が伸びていた。
読み終えたばかりだ。
ふぅ、とため息をついて本を閉じた。
穏やかな陽気の平日、公園は人もまばらで静かだった。本を読むにはちょうどいい。
慌ただしかった期末決算の疲れが、今になってじわりと出てきたようだ。
頬にあたる木陰の風が心地よくて、まぶたが重くなる。公園のベンチで本を読むなんて贅沢よね——そんなことをぼんやり考えながら、意識が薄れていった。
気づいた時には、視界が変わっていた。
赤い霧の中に浮かぶ豪奢な天蓋付きのベッド。
その上で、少年が苦しそうに息をしている。
息をのむ。
少年は布団を握りしめ、荒い呼吸を繰り返していた。額には玉のような汗が浮かび、顔色は青白い。
助けなきゃ。そう思うのに、声が出ない。体も動かない。
赤い霧が濃くなり、ベッドの周囲を覆い尽くしていく。
少年の手が、ゆっくりと布団から滑り落ちた。
「——嫌っ」
声にならない叫びが、胸の中で弾けた。その瞬間——少年の体から、力が抜けた。
視界が赤に染まり、すべてが飲み込まれていく。
「リゼット!」
「お嬢様、しっかりなさって!」
切羽詰まった父とマーサの声に引き戻されるように、私はハッと目を開けた。
泣きそうな顔のお父様とマーサが、私を覗き込んでいた。
研究以外には無頓着な父が、こんな顔をするなんて。
ゆっくりと視線を上げると、見慣れたはずの天井があった。
二つの記憶が胸の奥でぶつかり合い、落ち着く場所を見つけられない。
知らないうちに頬が濡れていた。
胸の奥が、まだざわざわと鳴り止まない。
——あの少年は、死ぬ。
あと、7日で。
布団から落ちたあの手が、胸の奥に刺さったままだ。
「……させない」
つぶやいた瞬間、握りしめた手が震えていることに気づいた。
あの手を、二度と落とさせたくない。
読んでくださりありがとうございます。毎日投稿していきますので、彼女が選ぶ未来を、これから一緒に追っていけたら嬉しいです。




