二人だけの空間で。
「……ところで、奏良先輩。少々、お着替えをしたいなと。少し、汗をかいてしまったようなので」
「……へっ? あっ、それでは僕は――」
「ああ、出ていかなくて構いませんよ? ひとまず、後ろだけ向いていただければ」
「……そう、ですか」
その後、ややあって襟元をパタパタさせつつ口にする白河さん。まあ、ずっと体操服だしね。……ただ、その仕草はちょっと目の遣り場に困るけども。
ともあれ、いったん外に出ようとした僕の裾を掴み留める白河さん。とは言え、心臓に悪いので僕としては出ておきたいところなんだけど……心做しか、ここにいろと言わんばかりに裾を掴む力が強くなって……うん、どして?
そういうわけで、終わったら教えてくださいと告げ後ろを向いているわけだけれど……うん、ほんと心臓に悪い。いや、よくよく考えたら今更こんなことで緊張する関係でもない気はするけども――
「……ん?」
「ん、どうかなさいましたか先輩?」
「……あ、いえ……」
ふと、声を洩らす僕。そして、そんな僕に不思議そうな声音で問い掛ける白河さん。……いや、別段何というわけではないのだけど……ただ、余りに無音なのが気になって。と言うのも……こう、着替えの時に生じる音がまるで聞こえてこなくて。この距離、そしてこの静謐な空間なら少しくらいは聞こえてきそうなものだけど……ひょっとして、僕の心音がうるさすぎる?
……いや、でもそれ以前に……そもそも、ここに着替えなんて持ってきてたっけ? ……それに、そもそも着替えの際に後ろを向くよう言われたことは一度も――
「――っ!!」
刹那、思考が止まる。何故なら――卒然、僕の首を見蕩れるほどに綺麗な両の手がそっと包んだから。
「……あの、白河さん……?」
そう、ポツリと呟く。……いったい、どうしたのだろう? ……あっ、ひょっとしてバランスを崩し――
「……ああ、やっぱり最高ですね……先輩の匂いは」
「……へっ?」
「……これも、まだ言ってませんでしたが……本当に、嬉しかったのですよ? あの桜野先輩との二人三脚を辞退してまで、私に寄り添ってくれて……そして、今もこうして一緒にいてくださってることも」
「……白河さん」
「……もちろん、分かっています。私だから、ではないことくらい。友人が……いえ、友人でなく少し話した程度の関係でも、あの状況なら同じように寄り添う――貴方が、そういう優しい人であることは」
そう言って、後ろからぎゅっと抱き締める白河さん。背中に感じる温もりに、その柔らかな感触に否が応でも身体が熱を帯びてくる。
「……でも、それでも嬉しかった。大好きな桜野の先輩とのまたとない機会を放棄してまで、私の傍にいることを選んでくださったことが。……ここまで、ずっとどうにか堪えてきましたが……もう、無理そうです」
「……ですが、流石に今は……」
「……見つかったらマズい、ですか? ご心配には及びません。遠目からでも分かりますが、皆さんお祭りに夢中……誰も、このような校舎の一室に出向く人などいませんから」
そう、耳元で囁く白河さん。その甘い声音が、吐息が蕩けるように脳を溶かし思考を鈍らせる。……うん、そうなのだろう。今、ここに来る人はきっといない――ただ、二人だけの空間で。
ひとまず離れるように告げ、ゆっくりと彼女へ向き直る。そして、吸い込まれそうなほどに深く澄んだその瞳を真っ直ぐに見つめ――




