8.
「おはよう」
「……こんにちは」
リハーサルの一時間前にどうにか会場に到着した優乃は、最低限の打ち合わせを済ませた後パイプ椅子で縮こまっていた。
「『8時にモニコして』って連絡しておいてそこから二時間目覚めることなく、俺が連絡を受けていた集合時間より一時間後に到着。リハーサルには間に合ってても、直前の打ち合わせはギリギリ。お前、ずいぶん偉くなったんだなぁ?」
「……いえ、そうではなくって」
幼馴染に真剣に怒られている様子を、通り抜けるスタッフたちは微笑ましく横目で見ながら準備を進めている。
マネージャーである久能よりも、スタッフの誰よりも、付き合いの長い梓がこの場で怒っていた。
本来叱るべき立場だと弁えている久能でさえ、ここを梓に譲ってしまった。いや、この場合は梓が叱った方が効くと考えたからだ。
「どれだけ歌が上手くなっても、『時間は守れ』っておじさんから怒られてたの誰だよ。その度に俺が毎回夏休みの宿題見せたり、ラジオ体操引きずって行ったりしたよな。高校生でもこうなってんのに、お前ツアーの時とかどうしてんだ。久能さんに叩き起こしてもらったりしてないよな?」
これからステージに立って、会場のお客さんたちを沸かせるはずの歌姫が、くどくど怒られている姿は表には見せられない。目撃したスタッフの誰かがSNSでこのことを広めないよう、祈ることしか出来ない。
凄まじい剣幕で怒られることを覚悟していたというのに、懇々と、嫌味ったらしく言ってくるせいで、リハーサル前から既に優乃は疲弊してしまった。
「ほら行ってこい。ちゃんと見とくから」
ちら、と時計を確認して、梓は優乃をリハーサルへ送り出した。
「助かります日紫喜さん。私がやるべきですが、日紫喜さんに言ってもらう方が彼女にはよりダメージが入ってくれるので」
「本番前に部外者にダメージ入れさせるのやめてください」
苦笑し合う二人。梓も久能も、優乃のことを考えているが故の互いの結論である。
「それで、日紫喜さん。ひとつ質問が」
大きな体躯に似合わず体を縮こまらせる癖をまた見せた久能は、パイプ椅子に座って梓に会釈をする。
「日紫喜さんの目から見て、優乃は休めていると思いますか?」
細い目がじっと梓を見つめ、理想と考える答えを待つ。碧生優乃を自身より知っているはずだと思っている相手だからこそ、高望みをしてしまうのかもしれない。
梓は適当なパイプ椅子を手にすると、久能の隣に置いて腰掛けた。
「まあ、俺ら高校生から考えたら、全然遊べないしもったいない時間の使い方してんのかなとは思いますよ」
学生の時分としてはあまりにも多忙であり、授業に出席している時間が少ない。高校生らしい生活、とはかけ離れている。
「優乃から直接聞いたわけじゃないですけど、友達と遊びたかったりするのかもなって。あいつそもそもデビューする前から友達多いやつだったし、今でも変わらず連絡とってたり、ライブに呼んでたりするんで。そういった時間の代わりにしてるのかもなって」
自分のプライベートな時間がない分、相手の時間を借りてどうにかして会う。ライブ終わりに楽屋に来てもらうようにしているため、優乃自身はそれで喜んでいる。しかし満足はしていない。
「それでもあいつがきちんとやりたいことを選んで、誰より努力したから優乃はyu-noになれたんじゃないかなって」
その言葉で、久能は大きく目を見開いた。そして脱力したように微笑むと、言葉を継ぐ。
「やっぱり、優乃のことを『天才』だとか『才能』で片付けず『努力』と言ってくれる人は、日紫喜さんだけですよ」
世間でのアーティストyu-noの評価は『天才シンガー』や『天才歌姫』とされており、彼女が歌の天才だと言われている。
だが梓は、彼女の才能が歌ではないことを知っている。
「俺、俺の親、優乃の親、少なくともあいつの最初の歌を知ってるのはこの五人です。そこからよくここまで来たなって思いますよ」
作曲はおろか、そもそもの歌唱力からまず伴っていなかった。歌手を目指すと言い出した幼少期のことを思い浮かべて苦笑い出来るのは、優乃の両親と梓だけである。
「だから俺は、優乃のライブを見たいんです。残念ながら俺はあいつのファンじゃない。ファンの人たちと同じ位置で見るわけにはいかない。まあそのせいで、毎回あいつに関係者席用意してもらってるのは申し訳ないんですけど」
「つくづく、あなたが優乃の幼馴染でよかったです」
マネージャーという立場であるが故に、多くの苦悩に苛まれてきたのだろう。梓は、初めて会った時よりも久能が少しだけ小さくなったように思えた。その多忙さのせいで一〇キロ近く痩せてしまったのだが、今の話題においては些事だ。
「日紫喜さん、うちの事務所に入りません?」
「入りません。あいつのご機嫌取りでお金もらうのは魅力的ですけど、怒りすぎて疲れがとんでもないことになりそうですから」
また顔を見合わせると、どちらからともなく笑って立ち上がる。
スピーカーから流れ出した彼女のヒットチューンが、耳を叩き始めた。




