第2話 妓楼での出会い
「はぁ……」
「はぁ……」
夜の空気に重なる、二つのため息。
背後では妓楼の灯が艶やかに揺れていて、空燕はその光を背にして、聞き慣れたような溜息に眉をひそめた。斜め横、視線を上げるとそこにいたのは、自分と同じように妓楼から出てきたばかりの男だった。
若い。けれどただ若いだけじゃない。恵まれた体格に、整った──いや、武骨であっても整っていると感じさせる面差し。そして何より、その立ち居振る舞いと身形の良さが、ただの通りすがりじゃないと告げていた。あれだ、官か、それとも軍の人間か。
「おっと、どうした兄さん。馴染みの妓女に先客でもいたのか?」
空燕はそんなふうに、軽く声をかけた。通る声だった。夜の風を震わせるほどに。
すると、男は小さく瞬き一つ。驚いたような、されどすぐに冷ややかな目を戻して──
「いや。私はこの妓楼に、初めて来た」
ぶっきらぼう。そして冷たい。言葉の端に含まれるのは、他人を寄せつけたくないという拒絶の刺。
けれど空燕は気にしない。ていうか、気にしたところで何か変わるわけでもないし。
「へぇ、奇遇だな。俺もなんだよ、初めて」
にっと笑って、空燕は続ける。笑ってはいるけれど、相手の顔を観察するのは忘れない。癖だ。
「それで?初めて来たってんなら、そんな溜息つくほど不満でもあったのか?」
風鈴が、ちりんと鳴った。妓楼の軒先。吹き抜けた夜風に香が混じる。甘くて、花の香りに似ていて、でも少しだけ苦い。そんな空気の中で──
男はまた、ひとつ溜息をついた。今度はさっきよりも、深くて。
なんだこいつ、って顔だ。初対面の赤の他人に、なぜこんな話をしているのかと、自分でも戸惑ってる顔。でも口は、自然と動いてしまっていた。
「いや。不満はない。女人は美しく、柔らかく、私を受け入れてくれた。ただ──」
「ただ?」
空燕は冗談っぽく首を傾げた。けれど瞳の奥に灯るのは、探る色。
「……どの妓楼に行っても、身体は熱くなっても、心は冷めていくんだ……」
その呟きは、吐き出したというよりも、こぼれた。
男は俯いた。まるで地面に視線を縫いつけるみたいに、伏し目がちに。そして、刀の柄を探すような仕草で、無意識に帯の端をいじっていた。
──空燕の胸の奥に、何かが突き刺さる。
理解できる。嫌になるほど、理解できてしまう。
そう思ったときには、もう空燕は気づいていた。この男の言葉は、どこか自分の奥に沈んでいる虚しさと、温度を揃えていた。
だからこそ、これは相手のためじゃない。自分のために言うんだ。自分自身に言い聞かせるように──
「……なぁ兄さん。あんたは若くて、しかも見た目もいい。身形だって立派で、まぁ、モテるだろ?だったらさ、妓楼になんか来ないで、ちゃんと、好きな相手を探しなよ。──きっとさ、好きな相手なら、心も一緒に熱くなるもんだぜ」
ふざけず、軽口も交えず。そんな言葉を口にしたのは、自分でも久しぶりだった。
男の眉が、ぴくりと動く。それから顔を上げ、口元だけで笑って、皮肉めいた声音で返してきた。
「愛だの恋だの……信じられない。そう言うなら、あんたこそ、なぜ妓楼になんて来ている?」
──正論だ。痛いところを突かれた。けれど、空燕は肩をすくめて苦笑した。
「俺は、あんたとは違う。若くもなけりゃ、見た目がいいわけでもない。ただの平民だ。……肉欲に溺れられりゃ、なんでもいい。そう思って、ここに来た」
本当のことだった。
同年代の連中が経験していることを、自分も──その程度の気持ちで足を踏み入れた。
でも、終わってみれば後悔しか残らなかった。
相手の話に、思わず耳を傾けてしまった。妓女の語る身の上話が、妙に胸に残って、どうしようもなく申し訳なかった。身体は熱を持っても、心は冷えたままで。自分の浅ましさに、ひどく嫌気が差した。
心が通わない交わりなんて、空しいだけだ──と、知ってしまったから。
「まぁ、いい。次の妓楼では見つかるかもしれないからな」
男はぽつりと呟いた。
そして、それ以上は何も言わず、くるりと背を向けて歩き出す。妓楼の提灯の灯りが、その背をわずかに照らして──やがて夜の闇へと、吸い込まれていった。
(……なんだあいつ。妓楼荒しか?やけに妓楼にこだわるな)
空燕は去っていくその背中に、呆れと、哀れみにも似た想いを抱きながら──
その日、一日で全ての掟を破った足で、荷をまとめに鎮魔司へと向かった。