(12)最後の選択
アラームが鳴った。18時30分。
ベッドから起き上がる。少しくらい寝たかったけど、全く寝れなかった。
ランニング用の服に着替え、タオルを首にかけて、腕時計をして、階段を下る。台所に入ると、テーブルには豚の角煮と春巻きが並んでいた。どっちも俺の好物だ。ちらし寿司もある。取り皿は三つ。
「走るの後にしたら? もうご飯だよ?」
そう言う母さんはサラダを盛り付けていた。コンロの横、まだ油を切る網の上に並んでいる唐揚げを摘む。一口だけ、と。
「ちょっと、お父さんもうすぐ帰って来るから待ちなよ」
ササミでも胸肉でもなく、柔らかいもも肉だ。久しぶりに食べた。
その様子を見て、母さんが笑う。
「今日くらいは好きなもの食べてもいいんじゃない?」
そうだね、と目を逸らす。冷蔵庫から水を出して、腰のポーチに入れた。
「コンビニ行って来るね」
「何か欲しいなら、お父さんに頼んだら?」
「……すぐ戻るから」
玄関でトレッキングシューズを履くと、ガチャっと父さんが帰って来た。
「おお、ただいま。なんだ、走りに行くのか? ケーキもあるんだし、食べてからにしたらどうだ?」
「……先に食べていいから」
それでも待つんだろうな、と思いながら玄関から出る。むっとする熱気が体に纏わりつく。エアコンで涼しい家に戻る想像が頭に浮かぶ。
俺のいる世界ってこんな力があるのか、と思った。こんなにも引き留める力があるなんて、知らなかった。
きっと河野千歳も同じ気持ちだったんだろうな。胸が締め付けられて、苦しくて堪らない。
だから走るしかない。精一杯、走って振り切るしかない。今夜、踏み止まったら、一生後悔する。それだけはわかる。
墓地の吹き溜まりには、高山さんが待っていた。タオルで流れる汗を拭い、正面に立つ。まだうっすらと陽は続いていて、高山さんが睨んでいるのがわかる。そういや、合言葉みたいなの、決めたっけ。
「コンビニのついでです」
「……はあ?」
「コ、コンビニのついでです!」
それ以外言うな、と言われている以上はそう言うしかない。ジロジロと観察される。懐中電灯で顔や体を照らされ、何かをチェックされている。
「……取り憑かれてはねえな。もう話していいぞ。その左手どうした?」
そういうことか。悪魔の魂を対象指定して取り込んで乗っ取られてないか、確認したのか。地獄を見たって言ったのにもが関わらず、やっちまったけど……。まあ、正直に言うしかないよな。
「グラトニーを取り込んで、変性しました。その時の傷です」
高山さんは顔をしかめた。
「お前、よく平気だったな……」
「全然平気じゃないですよ! 死ぬほど痛かった……。よく覚えてないんですけど、他に思念で話しかけてくる奴がいて、そいつにたぶんグラトニーが気を取られたんです。それで無理矢理、変性できたんだと思います」
「まだ話すなれ果てがいるのかよ。なんて言ってたか?」
ええと、たしか……。
「純心の一途が立ち上がった、とかなんとか」
「……なんだそれ。童貞からかわれたのか?」
「知らないですよ‼︎」
「まあ、無事ならどうでもいいか」
そう言って高山さんはバックパックを下ろした。ガサガサと何か探してる。
「まだ悪魔のなれ果てがいたとしても、今から神に縋りに行くんだから、何とかしてもらえるだろ」
それ着ろよ、と高山さんはリュックから取り出した薄手のパーカーとズボンを投げてくる。さすがにTシャツ、ハーフパンツの軽装で夜の山には登れないからだろう。
「スマホ、貸せ」
そう言われてポケットから出すと、メッセージと着信があった。どこにいるの? と通知が読めて、振り切ったはずの思いがまた込み上げる。
「……泣くと思いますか、俺の親」
「お前が泣くと思うなら、確実に泣くだろうよ」
「…………今日、俺の誕生日なんだけどな」
「知ってる」
は? 偶然じゃねえのか。
「……知ってて今日にしたんですか?」
「そうだ。お前んちに行ったとき、玄関のカレンダー見て知った。凛くんの誕生日ってな。ちょうどいいと思ったんだよ」
「な、何がちょうどいいんですか! 俺、居なくなるんですよ⁉︎ 少しの間だと思うけど、父さんも母さんも死ぬ
ほど心配して、もし上手く帰れなくなったら、俺の誕生日がトラウマになるじゃないですか!」
「少なくとも、お前が失踪した日とお前の誕生日はトラウマになるだろうな。それくらい一つにまとめる親孝行はしろよ」
高山さんはリュックを背負い、ベッドライトが付いたキャップを被る。
「……俺が行かなかったら、高山さんが代わりに異世界へ行くんですか?」
「俺は行かないって言っただろ。そのためのお前だよ。別にお前がここで帰るから、それでいい。俺も帰るさ。世界滅亡させるクラスの悪魔が出たら、イギリスの奴らが何とかするだろ。守護執行者を失踪させた奴らが責任取ればいいんだよ」
「それも覚悟なんですか?」
「馬鹿か。俺じゃ背負いきれないだけだ。逃げてんだよ。大人だから立ち向かうとか、決め付けんな」
薄手のグローブをした高山さんの手が差し出される。なんて大人だよ、俺はその手にスマホを叩きつけた。
「帰って来たら、腰抜けって、死ぬほど馬鹿にしてやるからな‼︎」
「はっ、楽しみに待ってるぜ」
そう言って高山さんはスマホの電源を落とし、藪の中へ思いっきり投げた。