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懐かしのクラスメイトたち(2)「ラガーマン、達也」  作者: 石原裕


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第6話 嘗て金村と交わした会話が達哉の胸に甦って来た

 嘗て金村と交わした会話が達哉の胸に甦って来た。

「なあ達哉。人は皆、他人のことを、ああだこうだと批判ばっかりするよな」

「ああ、まあな。然し、一体急に何が言いたいのだ?」

「でもさあ、奴らは何日もそうやって傍でギャアギャア言っているだけで、自分一人じゃ何一つ出来やしないんだよな」

その後を達哉が引き取って、言った。

「そのくせ、何時何処ででも自分自身の真正な存在を違和感無しに信じることが出来なくて、常に欲求不満と渇望に苛まれているんだ、と言いたいのか?」

「そうだよ。大体、この現実世界では、自分の意思で、自分の手で、自分のプランに従って、何かをやって何かが終わるようにしなければ、本当の始まりも無ければ、本当の終りも来やしないんだ」

「お前から見れば、奴らは何もせずに唯、じっと見ているだけ、決して飛ばない傍観者なんだな。自分自身をじっと見ている他人ということだな」

「その通りだよ。自分自身の不存在を実感するのを恐れている、卑怯で臆病な薄汚ねえ野郎共だぜ、全く」

金村は吐き捨てるように言ったのだった。達哉は自分と金村が追い求めたものは少し違ったのではないかと思っている。

 何かが違う。やり方も違えば、持っていた価値観も違ったのではなかろうか?

達哉は胸の中で金村の言葉に答えてみる。

俺は他者との相対的な関係の中に自己存在感や自己充実感を求めては来なかった。

自分自身の内部に感じる燃焼感や没頭感や充実感を拠り所にして、この現実世界での絶対的な自己存在感を追い求めて来たのだ。それがお前と俺との根本的な違いなのじゃないか?

 然し、と達哉は思う。

あいつは日本人じゃなかった。在日韓国人三世、本名を「キム・ヨンジュ」と言った。「金村貴憲」は日本での仮の名前、生存して行く為に不可欠の仮面だったのだ。

「そうだよ。生れ落ちた瞬間からこの国に根を生やしているお前達とは違うんだよ」

金村の声が叫んでいた。

「根無し草、余所者の感覚が俺にこびり付いて離れないんだよ。自己不在感の根源は此処から来ているんだ。出だしから違うんだよ、な」

金村たち在日韓国人は毎日の生存の段階から過酷なレベルでの闘いを強いられて来た。民族が違うと言うだけで、居住環境も就く職業も劣悪な状況に在った。

今にも崩れ落ちそうな狭くて暗く汚いバラック小屋に住み、食うものも凡そ日本人が食さなかったホルモンや肝やモツや細切れ野菜等々、勿論、まともに就ける仕事も無く、両親や兄姉の就いた仕事は、殆どが日本人の誰もがやらない、牛馬の賭殺やその肉の販売、或いは、その皮を剥いだ皮革加工の仕事や靴屋や下駄屋等々、そして、社会生活のあらゆる場面で差別され白眼視され、虐げられ蔑まれて生きて来た。それも豊臣秀吉の朝鮮征伐や西郷隆盛の征韓論に端を発し、昭和の大東亜戦争における朝鮮への侵略というような歴史に翻弄されての結果である。彼らの責任では断じて無い結果に拠ってである。

 金村が達哉に語った言葉が有る。

「俺が子供の頃、ガキ大将になったのは、それしか方法が無かったからだ。小さい頃、俺は寄って集って虐められた。朝鮮人、朝鮮の子ってな。その度におふくろに怒られたんだ、負けるんじゃない!男の子なら負けるんじゃない!仕返して来な!ってな。俺は泣きながら、身体の何処かに傷を負ってさえ、死に物狂いで闘ったよ。ガキ大将になることで俺はお前達日本人に、俺の存在を認識させたんだ。そうすることで俺自身が自己の存在を自分の中に確認して来たんだ。お前たち日本人の意識の根底には、朝鮮は劣った国、朝鮮人は劣った人種という考えが未だに無くもないだろう」。

 金村の言葉は続く。

「お前達も、そして、時として俺たちも忘れてしまっていることがある。自己の存在はその出生の時点からして与えられたものであるということを、な。しかも俺たち朝鮮人は名前も、この本名で無い金村貴憲という名前も他者によって与えられたものだし、存在の看板である顔もまた、民族という俺以外のものから与えられた。俺の表情は他者によって分節されているんだ」

確かに、人間は誰しも早産という形で、謂わば、未完成のままこの世に生まれ出て来る。他の哺乳類のように、生まれて直ぐに自らの脚で立つことは出来ないし、その生命の維持の為には、そもそもが他者による介助を必要としている存在である。

ということは、自己というものは、どのような他者の他者であり得ているかということによって決まることになる。自己の存在が危機に瀕するのは、自己が如何なる他者の意識の宛先ともなり得ていない時である。居ても居なくても他者に何の影響も及ぼさない自己、そのような存在は無きに等しい。愛情や好意の対象でなくとも、憎しみの宛先でさへあっても、ひどく鬱陶しい対象であっても、それでも他者が無視出来ない存在として自己が在るときには、自己は存在する。如何なる他者にとっても関心の対象ではない存在になったとき、最早、見捨てられる存在ですらなくなった時、人は自己を喪う。

自分がこれをすることの意味、或いは、自分が此処にいることの意味への問いは、折にふれて浮上して来る。然し、それは他者が見出してくれるものなのだろうか?

 達哉は思う。

なるほど、自己というものは確かに、幼い頃から他者との差異を一つ一つ確認する中で象られていくものである。大人と子供、男と女、教師と生徒、敵と味方等々、色んな区分けの中でそのどれかの場所に自己を位置づける。その中で自己の性向もはっきりして来る。然し、他者の他者としての自己の存在を突き詰めても、「自己」というものの一つの「類型」にしかたどり着けないのではなかろうか?重要なことは、人生のどの段階にあっても、自己の存在が絶対的に自分の中で確認され認識されることではないのか、達哉は、他者という存在を介しての自己存在感は、相対的なものでしかないであろうと思う。

 他者を介して獲ち得られる相対的な実在感というものは際限が無く、自己の存在感への渇望と飢餓感は果てし無いのではないのか、そんな不確かな手応えではなく、自分独りきりの謂わば自己完結型の絶対的な自己存在感を俺は獲ち得たいのだ。

他者を通しての相対的な自己存在感の確認ではなく、自分自身の中での燃焼感や没頭感や陶酔感を手掛りとしての絶対的な自己存在感の自覚を追い求めて来たのだ、と達哉は改めて自己認識した。

 間抜けた惨めな絶望感や一切の不安が解消され、自己の内部の真実が絶対疑われない世界、自己の本質と自分自身とを信じ、居心地の悪さも無く、一人ぼっちの彷徨も無く孤独の恐怖も無い魂の正規の世界、他人に裁かれることも無く、他人に掻き立てられる自意識も消えて自己の中に潜り込める自由の世界、魂の真実の世界、それこそが俺が追求して来た絶対的な内実の自己存在感だ!


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