第34話 お邪魔します
翌朝10時。
俺は、以前柚希と水族館に行った際と同じレベルの身だしなみに整えたうえで、地元の街を闊歩していた。
(本当は緊張して闊歩なんかできていないと思うけど…)
最初の目的地は近所のケーキ屋。
柚希の家に行く前に、昨日の理子からのアドバイス通り手土産を買っておくことにしたのだ。ただ、マドレーヌを買ってしまうと完全に理子の言いなりになってしまうので、それは避けたいところ。
「ありがとうございましたー」
カランコロン、というドアベルの音を背に受け、俺は再び日に照らされる。
結局俺はガトーショコラを3つ買い、取っ手の付いた、白い直方体の箱を片手に歩き始めた。
「あっちぃ…」
時期は7月下旬。夏の暑さもいよいよ本格化してきそうな頃あいだ。
ケーキ屋の店員さんには念のため、とドライアイスを入れてもらったが、俺は柚希の家までの道を急ぐ。
(まぁ、厳密には駅までの道のりだがそこはご愛嬌…)
暑さのせいで滴る汗も気にせず、俺は早歩きをした。でもケーキは崩れないように気を付けて…
少し前なら、すぐに弱音を吐いて、日陰ばっかり探してちんたら歩いていただろうに。
誰がそうさせているかなんて、愚問だ。
信号待ちの時間さえいじらしく思える。
気が付けば、駅まで来た。
水族館からの帰りはここで彼女と別れた。だから、俺は柚希の家までの道のりを知らない。
と、言うわけで…
「南條君。今日は暑い中ありがとう。ちょっとここから歩くんだけど、我慢してね~」
「はい。こちらこそ急なお話で申し訳ないです」
「ううん、あの子も南條君に会えるの楽しみにしてるからいいの」
駅で待ち合わせておいた柚希の母、天音さんに、道案内してもらう手はずになっていた。
昨晩柚希から提案され、退院したての柚希にこの灼熱の下歩かせるわけにもいかず、他に頼れる人もいないから、ということでこうなったのである。
しかしやはりよその家のお母さんと町中を歩くというのは緊張してしまうもので、俺は先ほどまでとは打って変わって、しきりに汗をぬぐっていた。
学校での柚希の様子や、逆に家ではこんな感じ、とか普段なかなか話さないこと、聞かないことが俺と天音さんの間で飛び交う。
緊張こそすれ、俺は結構その時間を楽しんでいたのだろう、天音さんが「あっ、着いたよ」と言うまで時間を忘れてしまっていた。
初めて訪れた柚希の家。
3階建てのマンションで、部屋は3階にあるのだという。
1階のエントランスのオートロックを天音さんが解除し、階段で3階まで登る。
暑い中階段を上るのは少々堪えたが、柚希に会えるのならこのくらいの苦労は安いものだ。
部屋の前まで少し歩いて、天音さんが再び鍵を取り出す。
いよいよか、と俺は彼女の背後で少しだけ身を固くした。
ガチャリ、という音とともにドアが開き、天音さんが俺に対して中へ入るよう手で示した。
小さく礼をし、俺は中へと入る。
よその家のにおいがする。
お邪魔します、と遠慮がちにつぶやいたその時、奥のリビングへとつながる扉が開いて──
「いらっしゃい」
そこには、柚希がいた。
俺の、大好きな人が、いる。
彼女だけの力で、立っている。
その事実に、俺の心は大きく動かされて。
柚希に迎え入れられた俺は、8畳ほどのリビングに通され、ダイニングテーブルにて、天音さんと柚希に相対して座っていた。
テーブルには、麦茶の注がれた青いコップが3つ置かれ、氷がくるくると回っていた。
緊張しながら、俺はのどを潤した。
中の氷が、コロン、と音を立てる。
その音を皮切りに、天音さんが話し始めた。
「改めて、今日はありがとう、南條君」
「いえいえ。これ、つまらないものですが…」
そう言いながら、俺は恭しく手に持っていた紙袋を差しだして、テーブルの上を滑らせた。
「お気遣いありがとう、あとで一緒にいただきましょうか」
お礼を言う天音さんの隣で、柚希がコクコクとうなずいている。
甘いものが好きなのだろうか。
天音さんは袋の中を確認し、冷やしておいた方がよさそう、とこぼすと、冷蔵庫の方へ向かった。
「ほんとにありがとう、広哉君」
「うっ、うん。元気そうでほんと、安心したよ」
「この通り、すっかり元気だよ」
そう言って柚希は全く太くない二の腕を叩いて、どや顔をする。
いや、力こぶないけど…
(そんなことよりっ!!!名前呼びを生で体験してしまった…え、何俺もう死ぬの?それとも夢?何があったんだ古賀さん…!!!)
内心穏やかではなかったが、仮にも好きな異性のお母さまの前、鼻の下をだらしなく伸ばした様子なんて見せられるはずがない。
俺は柚希に気づかれないように深呼吸をし、一度落ち着こうとする。
その時だ、元の席に戻ってきた天音さんが爆弾発言をしたのは。
「あれ、お部屋行かないの?」
「っ…」
「ちょっ、なっ、何言ってるのお母さん!」
今自分がいる場所など忘れ、完全に天を仰ぐ俺をよそに、母娘間ではプチ喧嘩のようなものが勃発していた。
が、あいにく内容は聞こえてこない。
2人との距離や、声量のせいではない。
俺の遠のく意識のせいだった。
(あぁ、だんだん視界が白くなっていく…やっぱ俺、死ぬんだな…)




