第22話 世界
理子の言いつけ通り、母さんに連絡を入れた俺は、理子のとなりでただうつむき、自らの体の正面にあるドアが開くその瞬間を待っていた。
俺のスマホが何度か振動したので、母さんからの返信があったのだろうが、それらを確認することもなく、ひたすらに待ち続けた。
「柚希ちゃんって、明るい性格で、ちょっと天然っぽいところもあるけど、ほんとはよく考えて行動するタイプなんだよ」
「えっ…」
忽然と語り出した理子にびっくりして、少し遅れて反応するも、俺は彼女の口から溢れる言葉に耳を傾けた。
「保健室登校するのだって、高校生の間の事だけじゃなくて、将来のこともしっかり見据えて、悩んで悩んで、すごい考えた結果なの。だから今回のこともさ、きっと、柚希ちゃん1人じゃとても抱えきれなくなっちゃったようなことが、あったんだと思うな。それで考えすぎちゃって、もうどうしていいかわからなくて、こんなことになっちゃったんだと思う。だから広哉は…」
そこまで話して、理子はひとつ間を置いた。
「広哉は…広哉にできる最善を探して、それを、やってほしい。お願い」
理子は小さくかすれた声で必死そうに、そして一抹の悲しみも漂わせながらそう言った。
言ったというよりも、何とか喉の奥から声を絞り出した、という方が適切であろう。
それほどに理子は疲弊していて、柚希を心配しているということだ。
だから俺も、相応の態度で応えなければならない。
「わかりました。任せてください、俺、やるべきことはきっちりやる人間なので」
「ありがとう」
理子は心底安心したという様子で答える。
その様子を見て少し胸が軽くなった俺だったが、落ち着いていられたのは一瞬。
ちょうどその時、初療室のドアが開かれたのだ。
「古賀さん!!」
4人ほどに囲まれたストレッチャーの上で、柚希が横たわっていた。
その元に俺は真っ先に駆け寄る。が、当然医師らしき男性に制止される。
「術後間もないですので。あまり刺激しないでくださいね。お二人はこのまま病室までお願いします」
「はい…」
「柚希ちゃん…」
俺は心配の色をより一層濃くした理子と一緒に、柚希の乗ったストレッチャーをゆっくりと追いかける。
すっかり照明が落とされた院内の廊下を歩く。
聞こえる音と言えば、カラカラと回るストレッチャーのキャスターの音くらいだ。
医師たちが時折ぼそぼそ会話をしているが、素人の俺にはわかるはずもない内容であったし、そもそも声量が小さかったので、聞き取ることはできなかった。
エレベーターで二階へ上がり、少し進んだところで一行は止まった。
「では、こちらで説明の方させていただきますね。お母さまでよろしいですか…?」
「いえ、私は彼女の高校で養護教諭をしておりまして、本人の母親には連絡済みです。そろそろ到着すると思います」
医師に説明する理子の横顔は至極真面目なもので、教師としての監督責任を果たす時のそれだった。
「なるほどわかりました。ではお母さんいらっしゃるまで、こちらでお待ちいただく形でも大丈夫でしょうか?」
「私はそれで構いません。あの子のこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「えぇ、今はとりあえず安定していますので。それでは失礼します」
透明な自動扉の中へ入っていく医師の背中に、理子は深々と頭を下げていた。
それを見た俺も、頭を下げておく。
(そういえば古賀さんと初めて会った時も、こんなことしたっけ。古賀さんのお辞儀に俺が返す、みたいな)
「広哉、もう8時だよ。約束の時間。あとは私がいるから帰りな」
理子にそう言われ、俺はバッとスマホの画面を確認する。
そこには無機質な文字で8時過ぎの時刻がしっかりと刻まれていた。
(嘘だろ…でもまぁ約束だから仕方ない…)
俺は心の中でやるせなさを反芻しつつも、家へ帰る心を決めた。
「わかりました。よろしくお願いします」
「うん、任せときな。医者の話の内容はあとで教えてあげるから」
「はい。じゃ、また明日」
そうして俺は、正面玄関へと向かって歩き出した。
俺は病院の正面玄関を出ると、思い立ってポケットからスマホを取り出し、母さんに連絡を入れることにした。
内容は、これから帰るというもので、文面もそのまま送った。
時刻は8時すぎ。
田舎の夜はとても暗い。
建物からの煌々とした光はなく、ぽつぽつと街灯の光が点在しているだけ。
来るときに降っていた雨はいつの間にか止んで、アスファルトにしっとりとした感触をもたらし、夜の空気を一層冷たくしていた。
病院の敷地を出てから少し進んだところで、俺は道が分からないことに気づき、スマホで地図アプリを起動させ、自宅までの案内を開始させた。
暗い夜道にブルーライトの光がともる。
この暗さの中、あまり長時間画面を見れば、視力の悪化は不可避だと判断し、俺はなるべく前を向いて歩いた。
夏の夜だと、森の中から名前も知らない虫の鳴き声が聞こえてくるものだが、今は何も音がしない。
本当に無音だ。
あまりに無音で、そして暗く、俺は本当に生きているのか不安になる。
ばからしい不安だなと自ら悪態をつくが、ふと柚希のことが頭に浮かんで、今も彼女が生死の境をさまよっていることを思い、俺はいたたまれない気持ちにさいなまれた。
夜風に当たって、俺の頭は幾分冷えていた。
それでも、頭には柚希のことがちらつく。
俺が柚希と対面できたのは、初療室から別の病室へ移される間だけだったし、その間柚希の目は固く閉じられていた。
もしも俺の知らないところで容体が急変したら…
そんなことを考え、すぐに頭を振って否定する。
そんな結末はだれも望んでいない。
そのことを俺はわかっているつもりなのに、無意識のうちに考えてしまう。
そんな自分が嫌になった俺は、暗闇にため息をひとつ。
俺の吐息はどこへともなく消えていった。
そしてまた鼻から吸い込むと、雨上がりのにおいが鼻腔をかすめた。
(アスファルトのにおいなのかな)
そう思って、俺はハッとした。
このアスファルトに、柚希は打ちつけられたのだ。
そのことを、思わぬ形で再認識させられ、余計に容体が案じられる。
俺は足を止め、病院の方へ戻ろうか少し思案する。
だが、体は動かない。
俺の体を引き留めているのは理子との約束か、ましてや弱い自分か。
また自己嫌悪に浸りそうだと感じ取ったところで、俺は一台の車がこちらに向かってきているのに気が付いた。
そしてその車は、俺のそばに来るとゆったりと減速し、そのまま俺の脇で停車した。
夜道、1人きり、真横に車が止まる。
これほどにまで恐怖の因子がそろった経験が、俺の人生の中でかつてあっただろうか。
そして今、恐怖因子が塊となって俺の体の奥の方に溜まり、俺はフリーズした。
だが直後、その時感じた恐怖は無駄なものであったことを俺は悟った。
近づいてきた車とは、母さんのものだった。
「広哉!あんた、歩いて帰ってこようとしてたの!?」
「………」
俺の無言の肯定に、母さんはさらに呆れの色を濃くして、一つため息をつく。
「はぁ、もういいから、とりあえず車乗って」
そう促され、俺はやっと車の後部座席へと動き出す。
10年以上母さんが使っている見慣れた車へ、俺は後ろのドアから乗り込み、腰を落ち着けた。
すると、不思議と心が落ち着いてきた。
きっと幼いころから乗ってきた車、そしてところどころにしみのある、慣れ親しんだ座席に座ったことで、やっと安心したのだろう。
(さっきまで慣れない病院の固いソファーに座ってたんだから、無理もないな)
「動くよ」
「うん」
「ベルトしてね」
「あっ…」
母さんにそう指摘され、俺は自分がシートベルトをしていないことに気が付いた。
カチッという音と自らの手から伝わる感触で、しっかりとシートベルトが固定されたことを確認した。
俺が前方へ目を向けると、それを見た母さんはアクセルペダルを踏んだ。
自宅までの道は、ひたすらに窓の外を流れていく景色を眺めた。
南の方に見える日本アルプスのさらに先には、どんな世界が広がっているのか。
世界。
俺はふと、柚希が病院に搬送されるなんて事態にならなかった世界線を考えを巡らせた。
何気ない日々に、柚希というアクセントが加わって、俺の日常はちょっとばかり華やかなものへと変貌して。
前までは考えられなかったような経験を、二人でして。
水族館だけじゃなくて、いろんなところに行く。
夏の長岡の花火大会にも行きたい。
冬には一緒に雪だるまを作って、初詣も一緒に行くんだ。
その世界線で柚希とやりたいことはとりとめもなくあふれ出てくる。
でも今となっては、それらを今の世界線で叶えることができるかなんてわからない。
それはとてつもなく怖いことだ。
悔しくて、悲しくて、寂しいこと。
でも、どうしようもないのだ。
自分がどれほど無力なのかということを、頭に深く、強く刻み込まれる。
俺は何もできない自分に腹が立った。
こんなことは今日何度もあった。
でもなぜか、今回だけは自分の感情を抑えることができなかった。
俺は気が付くと、泣いていた。
それも、子供のように大声をあげながら、大粒の涙をこぼして。
車の中で泣き続ける俺に、母さんは何も言ってこなかった。
信号待ちで車が止まり、車内を沈黙が包んでも、黙って俺が落ち着くのを待ってくれた。
ひとしきり泣いて、落ち着いて呼吸できるようになった俺は、母さんに小さくお礼を言った。
母さんも小さく、うん、と返すにとどめた。
その日俺は家に帰ると、余計なことは一切せずに、風呂に入り、夕飯を食べ、歯を磨いてすぐに寝た。
別にすごく眠たかったとか、他のことをする余裕がないほど疲れていたとか、そういうわけではなかった。
起きていても余計なことを考えてしまうだけだから、体が勝手にそうしたのかもしれない。
夢も見ず、ただ深い谷に落ちていくかのように、俺は眠った。
だから、朝が来て体を起こしたとき、もう朝が来たのかと思ってしまった。
来てしまったものは仕方ないから、ベッドから立ちあがろうと床に足を下ろしたその時、両足に激痛が走った。
「うっ……おっ……っ…」
うめき声にすらならない何とか絞り出したような音を発した俺は、再びベッドに横になる。
(両足攣った…こんなのってありかよ…)
昨日病院まで走った疲労のせいかもしれないが、まさかこんなことが起こるとは…
中学を卒業してからは、体育の時間以外ではまともに運動していなかったので、体がびっくりしてしまったのだろう。
ベッドの上で転がりまわりながら痛みに耐えていると、ドアの外から母さんが俺を呼ぶ声がする。
「広哉ー?そろそろ起きないとまずいんじゃないの?お母さん仕事行くからね?」
「うあー、足攣ったー」
俺が何とか母さんに助けを求めると、入るよ、という一言の後、母さんがあきれた表情を浮かべてドアを開け、ベッドに近寄ってくる。
「何やってんのよ、ほら足伸ばして」
「うぅ…」
俺の足をベッドの面とほぼ垂直になるように上げて、悲鳴を上げているふくらはぎの筋肉を慣れた手つきで伸ばしてくれる。
「ほら、どう?」
「あー、だいぶマシになった」
「そう、ならよかった。じゃ私仕事行くから、とっとと準備して学校行ってきな!」
「ういー…」
畳みかけるように高速で言い残した母さんは、俺の部屋をそそくさと出て、一階の玄関へと向かっていった。
そして再び立ち上がり、今度は普通に歩き出せたことに安堵した俺は、自分の心が昨日よりもずっと軽くなっていることに気が付いた。
そして少しばかり軽い心持ちのまま、俺は朝の支度を始めた。




