【-身だしなみを整えて-】
階段をしばらく降りたのち、自身が生活していた部屋のある階で足を止め、そして廊下に出る。草木が生い茂っているが、それらを苦とも思わずに記憶を頼りに自室としていた部屋に入った。ここも草木が生い茂っているものの、廊下よりは酷くない。そこにあった金属の短剣を収める予備の鞘付きのベルトを見つけ、これを手に取りつつシャワールームに入る。
脱衣所の横に備えてある収納棚にはバスローブの他に、『下層部』で活動していた人々が着ていた共通の白衣に似た衣服があった。下着を脱ぎ、これをシャワールームに持ち込む。蛇口を捻るとシャワーヘッドから水が流れる。ただし、すぐにこれを浴びはしなかった。右手首の茨を動かし、タイル張りの床を濡らす水が『穢れた水』なのか、それとも人が浴びても問題の無い“活きた水”であるのかを調べてもらう。ここまでの間に茨の扱いにはもう慣れてしまった。あとはこれを調査以外に応用できれば良い。
調べた結果、『穢れた水』ではないらしい。恐る恐る、裸足をタイル張りの床に落とす。『穢れた水』を皮膚に浴びた際、酸のような痛みが走るらしい。それは海魔の流す血と似ているのだとか。だが、足裏からはそのような痛みは一切襲って来ない。これに安堵の息をついて、シャワーヘッドから放出される冷水を頭から被る。
『下層部』施設の水はまだ残っていたらしい。これだけのダメージを受けながら、水が残っているということは貯水槽そのものに大きな傷が入っているわけでもないようだ。だからといって、贅沢に冷水を浴び続けるわけにも行かないのだが、体の汚れを手で擦るが、垢も擦れば擦るほど出て来るので、脱衣所にあったタオルを使って、満足行くまで体を洗い続けた。続いて下着を水洗いする。これに関してはそれほど気にはしない。都市で新しい物を購入すればそれで代用が利くからだ。その柄や模様に愛着はない。むしろ、こんな下着を付けさせられていたことに、辟易するくらいだ。
水を止め、下着が傷まないように絞る。ドライヤーで乾かせない以上、ここでどれだけ水気をできる限り水気を取らなければならない。一時的に着直さなければならないのだが、さすがに水でビショビショな下着を付けていられるほどの横着さはない。脱衣所に戻り、バスローブを羽織ったのち、日当たりの良さそうなところに下着を干す。言っても五分、十分程度が限度である。そもそも楓は思ったことをすぐ行動に表す方であるので、こういった我慢強さは無い。待機時間に苛々して、集中力が欠如することさえある。それよりも体を動かしていた方がよっぽど気分が紛らわせられるのだ。
「んー、これぐらいならなんとか、かなぁ」
試しに下着を両方とも付けてみる。僅かに水気を感じるが、不快感にまでは至らない。これが段々と嫌にならない内にさっさと都市に行くべきだろう。そう思い立ち、脱衣所にあった衣服を上下とも着込んだ。白を基調とした物で、スカートではなくズボンなので、自分らしさなど微塵も無い格好である。そもそも丈の短いスカートを履き続けていたことはケッパーの命令であったのだが、あの男と初めて会う前から楓はスカートを好んで履いていた。それはこの世界で唯一、女の子らしさをアピールできるものだと思ったからだ。討伐者に女の子らしさを求めるな、と言われてしまえばそれまでだが、しかし、思春期の楓にしてみればこれは譲れない点なのだ。
これをケッパーと会わずに続けていたならば、いずれ男に襲われていたかも知れないことなのだが、そんな「もしも」の話は想像するだけで反吐が出そうになる。もうケッパーと会って、そして鍛えられたという事実がある。だから、スカートに拘っていて、それで男が群がって来ようと、その全員を昏倒させられる自信がある。この点にはケッパーに感謝しなければならない。たまにスカートを捲ろうとしたセクハラ紛いのことは一生忘れないが。
ベルトを巻いて、鞘に金属の短剣を収める。討伐者証明書をズボンのポケットに入れて、準備を整えると、次に食料庫と貯水槽を探す。これには手間取ってしまったが、無事に見つけることができた。非常用の食料の二つほどを水と合わせて食べて栄養を補給すると、また二つ携帯食料を手に取り、これを討伐者証明書の入っているポケットとは逆のポケットに詰める。貯水槽で見つけた水筒に水を注ぎ、ようやくここを立つ用意が完了した。
都市に降りるまで一時間も掛からないのだが、これだけ念には念を入れたのは、都市が海魔に攻められ崩壊していた場合を考慮してのことだ。無論、そんなことが起きていれば『下層部』施設の周辺でなにかしら異変が起こっているに違いないのだが、屋上から見渡した限りではそのような気配を楓は感じなかった。それでも一応である。旅とは常に余裕のある状態を維持しなければならない。ケッパーと旅をしているときにそれは思い知らされた。なにせ人を殺さずに強盗して来いなど、用意周到さとは皆無な旅をしていたため、ここに気を付けてしまうのは全てあの男との経験のせいなのだ。
経験などと想像すると、また謂れのない誤解が生み出されそうだなと思いつつ、楓は『下層部』施設をあとにする。自分はケッパーのことが好きだという誤解を雅や葵にされていたときには、心底、うんざりした。
あの男のどこに魅力的なところがあるというのだろうか。なにより、セクハラ行為に辟易していた自分が何故、その相手に好意を抱くなどと思うのか。
「まぁ、セクハラで止まって、それ以上をして来ない点では安心でしたけど」
ケッパーは人形好き。性欲の発散も人形を用いる。二次元しか愛せない男。その場面を目撃している以上、好意など抱けない。
ならばどうして一緒に居たのか。強くなるためでもあったが、純粋に人間としては見ることができる一面があった。強さを誇示せず、弱さを認め、痛みを知り、苦しみに言葉を落とす。強者の大半は自身の力を主張するが、ケッパーはしない。それどころか、その強者を物ともせず、諭しながら勝利する。
そんな一面は、連れられて鍛えられた楓からしてみれば、人として目指したいところではある。それ以外は全く目指したくない要素ばかりなのだが、それでもケッパーは強かった。それでも自分を弱いと言い張っていたのは、驕りを持たなかったからだ。
ならば自分はどうだっただろうか。
才能があると言われた。天然の天才だろうとも言われた。俊敏さ、機敏さ、柔軟さ、それらを自分自身は誇りに思うほど高め、そしてそれを武器にして戦って来た。反射神経も良い。なにより、直感的に体を動かせる。海魔の構えを見て、直感的に嫌な予感がすれば回避に移り、突破できると直感的に判断すれば飛び込む。
けれど、それに頼り過ぎていたのではないだろうか。自分には絶対の自信とも言うべき直観力があると、そう過信していたのではないだろうか。
ひょっとすると攻撃が単調になっていたかも知れない。もっと考えて動かなければならないところを、無意識に任せて体を動かし、戦っていたのではないだろうか。
「だから誠に勝てなかったのかも……」
もっと攻め手を増やさなければならない。全ての状況において、直感頼りに挑んでいてはいずれ海魔の餌食になっていたかも知れない。実際、ベロニカには見抜かれ、ケッパーの助けがなければ死んでいた。
ケッパーの死から見えて来る自分自身の荒の多さに、楓は気難しい表情を浮かべる。これをあの男が死ぬ前に気付けていたならば、もう少し戦況は変わっていたのでは、と。そんな風に考えると、歯痒い。
「考えなしに飛び込んで、ケッパーに見捨てられたと思って自棄になって、それでみんなの足を引っ張って……私は、最低だったってことですね」
そう言えば、ケッパーと会う前は敬語を遣ってはいなかったが、今ではもう敬語が自身のアイデンティティになってしまった。あの男が死んだからと言って、敬語から元の口調に戻ることもできなさそうだ。
海魔の気配は無い。決して気を緩ませてはいない。自信の直感に頼ってはいない。しっかりと周囲を見て、状況を見定め、海魔の姿が無いことを確かめて前進している。直感頼りの戦い方をやめるのだから、直感頼りの歩みもやめるべきだ。ただ、過信が禁物というだけで、直感そのものを捨て去るわけではない。それを捨ててしまうと楓は思うように動けなくなってしまう。頭は悪い方だと自負している。雅のように咄嗟の判断力や、土壇場の策略は持ち合わせていない。だからこそ、強みを打ち消すような思考中心の動きだけに拘ってしまってはならないと、なんとなく思う。話し相手が居ないので、この胸中を打ち明けることもできないので、若干の不安はあるのだが。
都市が見えて来た。海魔に襲撃されているようには見えない。念には念を入れた支度は杞憂に終わったが、これはむしろ吉報である。
楓は見張りをしている討伐者に証明書を見せ、門を開いてもらい中に入る。そこに暮らすほとんどが一般人で、査定所に所属している討伐者がこの都市を守るために周辺に出ている。しかし、以前に来たときよりも都市全体の協力体制は強くなっているように感じられた。初めて訪れたときは一部の一般人と使い手、討伐者がいがみ合っていた。今では士気そのものが上がっているのか、一般人、使い手、討伐者を問わずに情報のやり取りがしっかりとしている。
眠っている間になにがあったのだろうか。不思議に思いつつ、楓はまず査定所に顔を出し、お金を引き出す。続いて衣服を販売する店に入った。そこで自分に合った下着――とは言ってもケッパーの呪いとばかりに柄も模様も同じ物を選び、トップスは長袖に、そしてボトムスは丈の短いスカートを選び、その場で購入して試着室で着替えた。試着室にある鏡で一回転するとスカートは風を受けて捲れ、下着が見えてしまったが、やはりケッパーとの生活の中でそっち方面の感覚が鈍っているらしく、ほんの僅か丈を長く調整するだけで終わらせ、さっきまで着ていた物は女性店員に処分してもらうよう頼み、再度、査定所に向かうことにした。




