【-最終手段のための最期の目覚め-】
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「リィ……絶対に離れちゃ駄目だよ。それと、ディルからも目を離さないで」
「うん」
「絶対にディルを首都に連れて行く。それだけは私たちが、私たちだけがやらなきゃならない。もし私が駄目そうだったら、リィがディルを連れて首都を目指して。生き残れるなんて、思えないから」
目に見える範囲ではリザードマンが一番上の等級に当たる海魔であるが、それ以外にもありとあらゆる下等級の海魔が揃っている。さすがにエッグは見当たらないが、フィッシャーマンやストリッパー、フロッギィにナーガにセイレーン。見ているだけで頭がおかしくなりそうな数であり、鼻が曲がりそうなほどの悪臭が漂っている。
ここまで包囲されるとは思わなかった。最初は追い立てられた。けれどそれほどの数で無かったため逃げ切れると思った。けれど、進めば進むほどに数は増えて行き、徐々に左右を塞がれて、そして今は前方を完全に封鎖された。孤立無援ではないが、ディルを守らなければならない以上、下手に動けない。僅かでも隙を見せれば、動かないディルに海魔が押し寄せるに違いない。
リィが海竜となって全てを押し退けることもできるだろう。しかし、それには途方も無い体力を使わせることになる。なにせこの数だ。怖れず挑んで来た海魔に傷付けられることさえあるに違いない。
だからリィは最終防衛ラインなのだ。雅が前線に立ち、できる限り応戦する。そして、ほんの僅かな隙を作り出し、リィとディルをこの包囲網から脱出させる。それが今できる雅の最大限の努力だ。
死ぬ、だろう。鳴との約束は果たせそうもない。
そう思うと非常に残念ではあるが、自分の命でディルとリィが助かるのならばとも思えてしまう。きっとナスタチウムやアジュールもこんな気持ちで臨んだのだろう。
「楽しかったよ」
楽しかった。
出会ってから、今に至るまで。
苦しいときもあった、悲しいときもあった。けれど、それだけではなかった。ディルは雅を浜辺の町から連れ出してくれただけでなく、沢山の世界を見せてくれた。
腐った世界で心も腐り切ったいたが、こんな世界でも“悪くない”と思わせてくれることがそれこそ山ほどあった。
「だから、死ぬことは怖くないんだよ」
下がらない。引き下がらない。ここで下がってしまえば、楽しかったこと全てが台無しになってしまう。
もう戻らない。戻れない過去に目を向けるのは間違いなのかも知れない。けれど、こういった絶望的な状況でくらい、胸の中に残り、輝き続ける記憶に思いを馳せても良いはずだ。
「はっ、そうかよ」
不意に聞こえた啖呵を切った声に雅は振り返る。
「俺は死ぬことが怖ろしいように教えて来たつもりだがなぁ」
横たわらせていたはずのディルが身を起こし、立ち上がる。
「なぁクソガキよ? テメェはこの絶望的な状況において、なにを信じた?」
「……自分自身」
溢れ出しそうな涙を必死に堪える。
「それで良い」
ディルは雅の頭をクシャクシャと撫でたのち、義眼に手を当て、そこから斧鎗を作り出すと頭上で大きく振り回す。
「俺は生きたいように生きる。だからテメェも、生きたいように生きろ。約束は果たさなければならない。けれど、それで自分自身を信じられなくなってしまうのは、間違いだった」
「ディル?」
「『生きること』と美弥は言った。けれど、盲点だったなぁ。俺に『死ぬな』とは言っていないんだ。まったく、これだから言葉とは難しい。そして美弥は『生きたいように生きて』とも言ったんだ。だからここから先は、俺の好きなようにさせろ」
そう言って、ディルは雅の首根っこを掴む。
「ポンコツ! 悪いがテメェとの約束は守れそうにもねぇ! テメェが俺を喰う。そんな約束をしたが、やめだやめ! テメェは、コイツを喰え。意味は分かるな?」
「でも、ワタシが意思を持って食べることは……ディルにとっての最終手段だから……だから、食べろって言っていたんじゃ」
「俺はもう良い。もう良いんだ。だから、あとはこのクソガキの面倒を見てくれ」
「ちょっと待って、なにを話しているのか全然分からない!」
拘束を強引に解いて、雅はディルと向き直る。
その左目に宿している感情は、これまでのディルにはなかった優しさに溢れていた。
「良いか、クソガキ。テメェがやり切るんだ。テメェが、全てを果たすんだ。俺と約束できるか?」
「や、くそく?」
「ああ、そうだ。俺の代わりに首都に行き、クソ海魔どもの策略を阻止しろ。それが終わったなら、“生きたいように生きろ”。ただ、死ぬのはクソ海魔どもを始末してからだ」
ディルは斧鎗を振るい、接近して来た海魔を切り裂く。
「私なんかじゃ無理だよ! ディルじゃなきゃできない!」
「いいや、お前はもう持っている」
優しく諭すようにディルは続ける。
「俺が教えるべきことは全てお前は自分の物にしている。腕前はまだまだだが、そこで頭打ちじゃない。まだまだテメェは強くなる。だから、雪雛 雅。この腐った世界を守り抜くと、俺に誓え」
持っている? そんなことは、雅自身には分からない。けれど、これまで沢山の暴言を吐いて来たこの男の優しさは、初めて本物であると感じ取った。
「分かっ……た。できるか分からないけど、」
「できるかできないかじゃねぇ! やれ!」
「はい!」
「……はっ、最初から肯けってんだよ」
ディルは雅に近付き、左手の指で宙に五芒星を描いたのち、雅の額に人差し指を当てる。続いて彼女に黒い襤褸の外套を被せた。
「あ……? い、ぎゃぁああああああああああ!!」
両目が熱い。それを通り越して、激痛が迸る。それは両目に限らず全身に及んでいる。激しい痛みにその場で転げ回ってしまいそうだ。さすがに立ってはいられず、蹲ってしまう。
様々な物が頭の中に流れ込んで来る。
ディルの産まれた村。廃村になる前の穏やかな村の風景。蘿蔔 美弥が海竜に丸呑みにされる瞬間の光景。それから続くディルに向けられた蔑みの視線の数々。壊された村に転がる死体の山々。それから続くディルと海魔の戦いの歴史。
「変質の力の波が来るぞ、ポンコツ。溢れ出る前に飲み込め」
「うん」
リィの全身の骨が音を立て、骨格を変えた直後、質量を無視して巨大な体躯を持つ海竜の姿となって、大きな咆哮を上げる。海魔はその咆哮に怯え、畏敬の念を感じてからか海竜に道を開ける。
「痛い、痛いよ……エルリオ。う、ぁあああああああ!!」
雅が蹲ったまま仰け反り、天を仰ぐ。刹那、背中を中心にして花弁の如く五つの剣が均等な距離を持って宙に浮いたまま現出し、異様なほど強く発光する。
「やれ」
海竜はディルの命令に従い、天を仰いでいる雅の体を腐った地面と合わせて一呑みにし、続いて海魔が作った道を蛇のように這いずりながら突き進んで行く。
ディルはその様を眺めたのち、大きく嗤い出す。
「おい、テメェら……一匹でも海竜を追い掛けられると思っているなら、諦めろ。今の俺は生き残ることを第一にした戦いじゃなく、純粋な死と向き合った討伐を始めるんだからなぁ!」




