【-ディルが生きなければならない理由-】
使い古された手帳が一冊と、丸められた紙が入っていた。どちらも保存状態は良い。鉄の扉があらゆる腐敗から守ってくれていたかのようだ。
ディルの鍵で開いたのなら、この小さな鉄の扉と、その下に敷いた鉄板を作り出したのはあの男ということになる。ならば変質の力が、これまでの日々の全てからこれらを守っていたのかも知れない。
「『この村は、誰も外に出ることを許してくれない。村の中だけでは、世界のことが分からない。ならばどうして、僕はこの村で産まれてしまったのだろう。村の人たちはみんな、僕のことを風変わりだと言う。外になんてなにも無いと言う。けれど、そんなことが嘘であることは分かってしまう。僕は偽善者だ。笑って媚びを売り、人に好かれようとすることがある。それは自分自身でも気付いていても直せない悪癖である。もうこの村の人には見抜かれているだろう。だから風変わりだと言いながら、僕のことをどこかで監視している。なにか問題を起こさないだろうか、と』」
「『この村で生きることは苦しい。子供だからとなにもかもを流す大人が多く、僕の言葉はどれも聞き入れてもらえない。過保護と言えばそれまでだが、まるで村の中にある物を外に出さないようにしているかのようだ。外の世界は海魔が蔓延っている。しかし、まだこの村の近くにある清流は腐っていないらしい。もうしばらくは、海魔とは縁遠い生活ができると村の人たちは笑って話していた』」
「『死ぬことが一番、楽な方法ではないだろうかと思った。僕は知識欲の塊だ。村の中にある文献だけでは、分からないことがたくさんある。それを知ることができないのなら、死んで生まれ変わったほうが早い。けれど、美弥に止められた。そして約束させられた。生きることを約束してしまった。彼女は村の人全員に好かれている。まるで聖女のように崇められている。そんな彼女と僕が関わったことを、村の人はやや問題視しているようだったが、そんなことには気にも留めず、美弥は僕に関わろうとして来る。だから僕も、関わらないように努めることをやめた』」
「『美弥と清流の小川に行くこととなった。美弥の言葉なら、村の人も文句を言わないらしい。どうにも僕は、腫物を触るかのように扱われる。そんなに僕の“眼”が気に喰わないのだろうか? この右目は美弥に触れられてから色素が変わった。なんでも“銀”は、特定の海魔だけが保有する“眼”であり、縁起が悪いのだとか』」
「『美弥が死んだ。僕の目の前で海魔に丸呑みにされた。清らかな水の中から突然現れたそれは、竜と呼ぶに相応しい姿をしていた。しかし、あのような小川のどこから現れたというのか。まるで影に潜んでいたかのようだった。だが、それをどれだけ主張しても村の人は誰一人として僕を信じてはくれない。そもそも海魔に襲われたなどという話すら信用していないようだった。僕が小川で美弥を溺れさせた。そういう話に物事は進みつつある。美弥の両親も真実を知りながら、そういうことで物事を終わらせようとしている。僕の両親は僕を守ってはくれない。どうやらこの先、一人で生きなければならないらしい。だって僕は美弥と約束してしまったから。生きることを約束してしまったのだ。それは美弥を喪っても尚、続く。だから僕は死ねない。どれだけの罵声を浴びようと、どれだけ蔑まされようと、どれだけの噂が立とうと、どれだけの悪意ある言動を受けようと、僕と美弥の約束は揺るがない』」
「『美弥の両親が死んだ。しばらくして僕の両親も死んだ。揃いも揃って僕を恨みながら、死んで行った。母親に至っては僕を産んだことを後悔しているようだった。僕はもうこの村には居られない。元々、美弥を喪ったあの日から誰にも庇われてはいなかったが、建前上、両親が居たから僕はこの村に居ることを許されていた。その両親が死んだ以上、僕は出て行かなければならない。しかし、これは僕にとって復讐を遂げるためのチャンスでもある。あの海竜を、美弥を丸呑みにした海魔をこの手で討ち倒す。そのためならどんなことでもやろう。美弥を喪った次の日から、僕は使い手として目覚めた。物体を金属へと変質させる力だ。この力を応用さえすれば、海魔とも対抗することができる。あとは技量の問題だ。僕は恵まれた体格を持ってはいない。それでもこの体の限界ギリギリの腕力と、脚力を鍛えよう。そして海魔と対峙した際のあらゆる戦闘の術を、身に付けなければならない。その先にきっと、復讐すべき海魔は待ち受けているはずだ』」
「『村を出て次の日、海魔の群れを草むらの向こう側で見た。その夜は、恐怖で丸一日眠ることができなかった。朝方になって眠りに付き、そして昼過ぎに目を覚まし、夕刻になってから僕はあの海魔の群れが村に向かっていることに気付いた。僕の足では、今居る場所から荷物を捨てて走っても村に辿り着くのに朝まで掛かる。しかし、こうしてペンを走らせている暇は無い。あの村で僕は悪魔の子だ。しかし、だからってあの村なんて滅んでしまえと思ったことは一度だって無いのだ。あの村は、僕が産まれ、美弥が産まれ、そして美弥と約束し、美弥が死んだ場所だ。それを小汚い海魔に荒らされてはたまらない。睡眠などあとで幾らでも取れる。だから僕はこれからただ、足を動かすことだけに集中すれば良い』」
「『産まれ育った村が滅んだ。村を出て二日後のことだった。僕の見た海魔の群れが村を襲ったのだ。辿り着いた頃には手遅れだった。村の人は無惨にも喰い散らかされ、見知った顔の人も絶叫を上げたあとのように大きく口を空けたまま、内臓を喰い荒らされ絶命していた。老若男女問わず、村の人は全て死んだ。死体が転がっている。女性に至っては衣服を剥ぎ取られ、死体に卵まで産み付けられている。こんな非人道的なことが、あってたまるものか。しばらく、ペンを置く。もう内側から込み上げて来る怒りが抑えられない』」
「『海魔の群れを見つけてから、今に至るまでの記憶が抜けている。僕の周囲には海魔の死体が無数に転がっている。どうやら、僕がやったらしい。全ての海魔をたった一人で討ったのだが、どのように戦ったのかまるで覚えていない。それどころか、この村で一体なにをしていたのかすら曖昧である。卵は潰せない。触れた死体を栄養として、海魔の子供が産まれる場面を何度か目撃した。あれは触れれば絶対に離れられない類のものだ。だから産まれた海魔は全て討ったが、卵ばかりは僕の腕で金属の剣を突き立てようとしても、その核には届かない。この卵だけはここに置いておかなければならないだろう。いつか、この卵を潰せる日が来ることを願いつつ、僕は死体の転がる村の中心で、徘徊する卵に怯えながら休息を取った』」
「『卵の動きに気を付けながらの埋葬は難しい。死体をこのままここに置いておけば、必ず卵の栄養となってしまうが、無機物の多い場所に卵は近付かないことに気付き、なるべく一所に死体を置いた。吐き気が酷い。もう胃の中にはなにも残っていない。しかし空腹は感じない。ただあるのは、許して欲しいという願望だけだ。この罪悪感を切り捨てられる日は来るのだろうか。来ないかも知れない。ただただ、怖ろしい。そして、こうしてペンを取っている間も、ここに居るという記憶が曖昧になって行くのを感じている。これは脳が記憶に鍵を掛けようとしている症状だ。月日と共に、僕はこの村を忘れる。その前にこうして、起こったことを纏めておくことにする。いつか僕がこれを手に取って、思い出し、すべきことを果たせる日が来るだろう。だって僕は生きなければならないのだから。復讐を果たさなければならないのだから』」
「『美弥の墓を初めて見ることができた。村の人は誰一人として近付けさせてくれなかったから。言葉にできない感情の渦に僕はただ泣き喚くだけだった。それは許して欲しいとか、生きていて欲しいとか、どうして僕じゃないんだとか、怒りだとか、そんな表現できるような代物では無かった。散々、泣き散らしたあと、僕は墓石の下に鉄の箱を作った。変質の力で作ったこの箱ならば、経年劣化を少しでも遅らせることができるだろう。ここにこの手帳と、そして今日に至るまで持ち続けていた大切なものを置き、鍵を掛けることにした。この鍵は病院を見つけ次第、頭蓋に埋め込んでもらう予定だ。たとえそのことを僕が忘れていたとしても、病院で診てもらえば誰かがこの鍵に気付くだろう。そうすれば僕でなく、別の誰かがここに辿り着けるかも知れない。別の誰か……別の誰か、か。そんな誰かが、現れてくれるだろうか』」
手帳はここで終わっている。あとは白紙のページだけが続いている。最初は丁寧に書かれていたものが、途中から荒々しいものとなり、そして走り書きへと変わり、最終的にまた丁寧な書き方へと戻っていた。
「ディル……」
音読し終えた雅は、手帳を胸に抱く。
「やっと、ワタシがこの姿である理由が、分かった」
「そうだね、でも、リィはリィだよ?」
「うん。ワタシは美弥の姿を持っているけれど、リィ。でも、美弥の姿を借りている。返したいけど、もう美弥の体はどこにも無い。だから、御免なさい」
リィは墓石に向かって頭を下げる。
「ワタシがワタシであるために、この体を貸してください。ワタシが死ぬとき、ちゃんとあなたに返します。だから、お願いします」
「……この手帳に書かれている美弥なら、きっと肯いてくれるよ」
雅は丸められた紙を手に取り、結ばれていた紐を解く。
そこには少年と少女の二人が思い思いにクレヨンを使った、子供らしい笑顔と活気溢れる絵が描かれていた。ひょっとすると美弥はもっと早くにディルと出会って、この絵を描いたのだろう。だからディルが憶えていなくとも、美弥からディルに関わって来たのだろう。
この絵を大切と言い、そしてここに残した。それはつまり、薄れ行く故郷の記憶をここにしまい込んでおきたかったからだ。絵だけを持って、もしその絵を大切なものだと忘れてしまい、捨ててしまうことを怖れたのだ。そんなことになるくらいなら、忘れても良いから大切なものは大切なところに大切なままにしておいた。
“死神”が“死神”と言われるまでの、壮絶な人生は、忘れてはならない。誰かが胸に刻んでおかなければならない。
「リィ……私、やりたいことがあるんだ。協力、してくれる?」
「エッグを全て討つのなら、協力する」
「ありがと」
雅は絵を丸めて、紐で結び直す。そして“手帳の裏側を確認した”のち、共に鉄の箱に収めて、蓋に鍵を掛けた。ディルの鍵をウエストポーチの一番深いところに入れて、二本の短剣を静かに抜く。
「エッグの数は?」
「十二、くらい。もっとかも知れないし、それより少ないかも知れない」
「リィは私から少し離れたところでエッグの位置を教えて。私はエッグの前に出て、確実に核を貫くから」
「駄目。それじゃお姉ちゃんばっかりに負担が掛かる。一つ討つたびにワタシが囮になって走るから、次の準備を進めて」
「それだとリィに危険が、」
「あの手帳を読み聞かせてもらって、それで、ただ後ろで、ジッとなんて……ワタシだって、していたくない、から」
なにを思っていたのだろうか。
あの手帳を読んで、自分だけが感情を揺さぶられるわけがない。リィもまた、海魔であっても海魔として、感情を揺さぶられたのだ。
違いなどどこにも無い。
どこにも無いからこそ、信じられる。
「全力で卵を潰す。それがこの村にとっても、ディルにとっての大切なものを守ることに繋がる。滅んでしまって、救えなかった命のために、もう二度とこの村から海魔が産まれ落ちないようにする」
風が渦を巻き、雅の体を薙いで駆け抜けて行く。両手に握る短剣の帯が風を纏い、今にもその噴射の力で真正面に短剣ごと吹き飛んで行きそうなほどだった。
私はディルの記した誰か、ではないのかも知れない。
「それでも、読んだのがこの私だから……私たちだから!」
誰か、ではなくとも果たさなければならない。
「ワタシをここまで導いてくれた美弥のために、ディルのために、迷ったりしない。ワタシは海魔でも、人と一緒に戦う海魔になりたい」
決して、ディルの過去を清算するためではない。
ただ、このままでは心は穏やかではいられないのだ。
このまま黙っていることはできないのだ。
そう、これは『偽善』だ。雅の根底にある正しい行いのような自分勝手な行動だ。しかしそれは実に自分らしい。
だから迷いは皆無である。
「走るよ」
「うん」
ここで産まれた過去の少年と少女のために、今の二人は感情のままに、暴れたいのだ。




