【-鍵-】
「こんなところに居たんだ?」
街の出口となる門の前。その先には人が住まう場所すら無い荒んだ大地と過去の遺物と化した道路の数々が連なっている。門の外には決して出ることなく、ただそこから見える景色をリィはジッと見つめていた。
「どうしたの?」
「見覚えが……ある、ような」
「それは、ディルに連れられて来たことがあるってこと?」
「ううん、そうじゃない。この向こう側の景色も、だけれど、この街全体の……こうなる前の景色を、ワタシは、見ているような……そんな気がするの」
「……リィ、変なことを訊くよ? ひょっとするとリィを傷付けるような質問かも知れないけど、それでも私のことを嫌いにならないでくれる?」
「お姉ちゃんのことは好き。それに、ワタシも知りたい。どうしてこんな風に思っているのかを。それを知る覚悟を、ワタシは持っておかなきゃならないと思うから」
雅は少女の小さな手が作る拳を見つめ、やがて声を発する。
「見覚えがあるのはリィじゃないのかも知れない。リィの中にある、リィが必ずその姿に戻る女の子が辛うじて、リィの中に残している景色だと、私は思う」
「ワタシじゃない、ワタシ? ディルがいつもワタシと間違える、女の子のこと?」
「そう。いつも間違えていたのかどうかは私は知らないんだけど、リィがその姿となる原点の女の子の記憶。リィが本当の姿になっても、必ず女の子の姿に戻るその理由も、そこにあるんじゃないかな」
「ワタシの中に、なにか居る?」
「居るんじゃなくて、混ざっているとしたら? もし、そうだとして……受け入れられる?」
海魔のリィじゃない、女の子の何者か。それが彼女の中に未だ残っているのだとすれば、果たしてリィはリィで居られるのだろうか。
もしも今までの考え方や生き方がその女の子の残していたものに引っ張られていたのだとすれば? 自意識ではなく、無意識の内にディルに――人の素晴らしさを知るように精神面を侵すほどの残滓だとすれば?
リィのアイデンティティは全て崩壊してしまう。それを、こんな形で壊すように雅が言葉で促さなければならないことは、苦痛以外のなにものでもなかった。
「なんだか、怖い」
「怖いよね」
リィの手が雅の服の袖を掴む。心なしか、震えているようにも見えた。
「ワタシは、ワタシだよね?」
そう、リィはリィであることを誰でも良いから認めて欲しいのだ。自分はここに居る。自分という意識はここにある。確かにここに存在している。自分自身に疑いがあるのなら、それを認めてくれるのは第三者しか居ない。
「リィはリィだよ。私が見て来たリィは、ちゃんとリィのもの。リィの言葉もリィのもの。リィの行動もリィのもの。海魔だろうとなんだろうと関係無い。ディルと過ごして来た全ての時間はあなたのものだし、私と出会ってから私と関わって来た全ての時間はあなたのもの。なにより、あなたの体を動かしているのはあなた自身。そのことは不安になって訊かれても、何度だって言ってあげられる。あなたはリィ。可愛らしい風貌をした女の子の姿をした海魔。大人びたことを言って、時として子供っぽい無邪気さも見せて、けれどどこか達観した観念も持っている、なにより人の素晴らしさに気付けたことの全ては、海魔だからこその感情だよ。人が人を素晴らしいと気付けるのはなかなか難しいんだよ。でも、あなたは海魔だからこそそこに気付くことができた。それは絶対に、リィだからこその感情なんだよ」
これだけは自信を持って言える。今の今まで、リィと触れ合って来たからこそ分かる。リィらしくない言動を取ることがあっても、それは“リィの意思に反して”という大前提がある。だから、彼女のアイデンティティは崩れない。雅が彼女の意思を認め続ける限り、彼女は彼女のままで居られる。
「初めて会ったときのお姉ちゃんは、頼りなかったけど、今は好き。だから、だからね……ううん、これは言わないでおく」
なにやら含みを持たせたことを言いながら、リィはやっと笑顔を見せてくれた。
「えっと、それでね、リィ。お願いがあるの。私と一緒に、ディルの産まれた町に行く気はない? その町はもう海魔に滅ぼされていて、人は一人も居ないらしいんだけど、ディルに繋がるものが残っているかも知れないから」
「ワタシがワタシである理由も、見つかるかも知れない?」
「ディルがリィに拘る理由。ディルがリィを見て、別の女の子を見ていたのなら、きっと見つかる。でもそれは、リィの正体を掴むことになる。それが嫌なら、それが怖いなら、私は一人だけで行く」
どうする? という質問の眼差しをリィに向けつつも、雅の表情は柔らかなものだった。行かないと言われても構わない。それが彼女の選択であるのなら、無理強いはしない。そう決めているからだ。
「行く」
しかし、想像よりも早く答えは返って来た。リィのことだからもっと深く考え、答えを導き出すだろうと思ったのだが、その返事はとても衝動的で、なにより力強さに満ちていた。
「分かった」
だから雅も再確認するような野暮なことはせず、彼女の力強さを信じ、肯く。
「それじゃ、今日の夜はちゃんと私の傍に居てね?」
恐らく、リィがここのところ雅から離れて外を出歩いているのは、彼女の中に混じっている記憶の残滓のせいだろう。デジャブ、或いはフラッシュバックする記憶の中で、リィはひょっとするともがいているのかも知れない。
「うん」
「じゃ、気が済むまで街を見て歩いて、日が沈んだら病院に戻って来ること。ディルはきっとそんなことを許さないと思うけど、私はどちらかと言うと放任主義? みたいな感じだから、ちゃんと自分のことを分かっていて、危ないところには近寄らないリィを信じて、先に病院に戻るからね?」
「……やっぱり、お姉ちゃんが――」
踵を返し、来た道を戻ろうとする雅の背中にボソボソとリィが呟いたが、その先に待っている言葉がとても怖ろしいものなんじゃないかと本能的に感じ取ったのか、振り返って訊ねることもできず、雅はその場をあとにすることしかできなかった。
その後、雅は街中を見て回りつつ、非常食や水の調達、そして服と靴を新調する。決してディルに影響されているわけではないが、その上下の服はやはり黒を基調とした動きやすいものになった。闇夜に紛れるという意味では、黒を選択することは悪くない。しかし、今までは他色のラインが入ったものもあった。それが、今回に至っては装飾すら無い黒一色で染まっている。戦うための、いわば戦闘服である。しかしながら、奇しくも雅の黒髪と合わさり、夕刻の街中ではその容姿は見事に映えていた。そのことにも気付かず、周囲の視線が妙に刺さるなと思いつつ雅は病院に戻り、ディルの病室へと入った。
「お帰り、案外、早かったんだね」
「お願いがあります」
「知っているよ。ディルの出生地に行くんだろう? だったら僕と鳴の予定もズラすよ」
どうやら看護師を通して先に話は済んでいたらしい。
「それ以外にもう一つ。僕は君に頼みたいことがある。これを、」
ジギタリスは雅になにかを投げて寄越す。
「どうにかして調べて欲しい。ディルの検査中に見つけ出され、簡単な手術で抜き出した鍵だ。頭蓋骨の中にあった。埋めたあと、カルシウムが覆い隠したんだろう。つまり、ディルがまだ成長途中だった頃に体に仕込んだものさ」




