【-神を降ろす-】
「雅? ジギタリスが囮になるっていう話、だけど」
「うん、それだけは止めなきゃならないと思ってる」
「……よく考えてみたの。凄く真剣に、真剣に、考えた。あのときは、そんなことは絶対に嫌だと、感情が、先に行った。でも……ディルを首都に向かわせるにはもう、それしか手が無いんじゃないか、って思うようになった」
「なんで!? それ以外の方法なんて幾らでも!」
「私たちの生き方は、死者の出ない生易しいものなんかじゃ、ないから。進むなら犠牲が出る。留まれば死者が出る。留まって死者を出すくらいなら、犠牲を出してでも進む者が出る道を、私たちは進まなきゃならないんじゃないか、って」
もしもこれが、ファンタジーであったなら。夢物語であったなら、死は偶像に過ぎず、世界も輝きに満ちていることだろう。
ならば、自身の生きている世界はファンタジーだろうか? 違う。自身の生きている物語は煌びやかな世界ではなく、喩えるならば泥臭く、血生臭い物語だ。そんな物語にはいつだって、死が伴う。それも決して甦ることのない死、だ。
「それでも、生き残る可能性が無いところに行くなんて、おかしいよ」
「生き残る」
「……どうしてそう言い切れるの?」
「私は、雅を一人に、しないから」
それはまるで、今後、雅が一人になってしまうかのような発言だった。しかし、この言葉に激昂することはできなかった。
一人になるのは嫌だ。できることなら、もう誰かが死んでしまうところを見るなんて、そして死ぬなんて考えたくない。
だが、ありもしない希望に縋り付いたままではいられない。現実に目を向けなければならない。そして、現実的なことを受け入れなければならない。
受け入れなければならないことは鳴がジギタリスと共に囮になるということ。そして、ディルが、リィが雅の前から居なくなる日が近いということ。その二つだ。
「分かった。でも、すぐは無理だよ。そんなすぐには、私も気持ちを整理できないし、ディルを運ぶ準備だってできない」
「うん、だから、それはジギタリスに任せる。ジギタリスは、私たちにちゃんと、その時を伝えてくれる。その時が来るまでは、一緒に居よ?」
「ありがと」
「お礼は、私が言いたいくらい、なの。こんな私と、友達になってくれて、ありがとう。敵対して、争って、人を傷付けている私を受け入れてくれる同年代の人なんて、居るわけない、って勝手に決め付けていた、から」
「私もね、討伐者になってからは一人でなんでもできると思っていたし、友人なんて作れるわけがないって決めて掛かっていた。でも、違った。井の中の蛙だったんだって思い知らされた。私たちみたいな、まだ大人にもなり切れていない人たちも、討伐者として必死に生きている。討伐者だけじゃない。使い手として、一般人として、この世界で生きている。それを私は、これまでの旅で知ることができたの」
ディルに出会わなければ死んでいた。リィに出会わなければ海魔の生態に興味を持つことは無かった。
葵に出会わなければ友達を作ることは無かった。
楓に出会わなければ向上心を得ることは無かった。
誠に出会わなければ強さに限界は無いのだと知ることはできなかった。
鳴に出会わなければ人と人との繋がりのありがたさを知ることはできなかった。
全て、全てが雅の血肉になっている。そしてそれはきっと、鳴も同じなのだ。葵も楓も誠も、きっとそうだろう。
「旅、良いね。もっと、たくさん、旅がしたいね」
鳴が雅の手に自身の手を重ねて来る。
「そうだね。海魔と戦うのは怖いけど、それでもたくさんの景色を見たいね」
「人が、家畜が、どんな風に生きていて」
「海魔にどう抗っていて」
「人としての営みを、幸福を掴んでいて」
「そして、新たに産まれて来る命に、どれだけ感謝しているのか」
額と額を当てて、クスクスと笑い合う。
「旅は終わらないよね、鳴?」
「終わらせない」
「私たち、まだ全然、話せていないもんね。葵さんとも楓ちゃんとも、誠とも、まだまだ話したいことはたくさんある」
「うん」
「だから、死んじゃ、嫌だよ?」
「死ぬわけ、ない。私は、死なない」
最後に鳴は「ジギタリスは、覚悟しているかも知れないけれど」と付け足し、雅から離れた。
『生き残る』と言ったところから、もう鳴は覚悟しているんだなと雅は思っていた。ジギタリスは囮となって、そして最期の最期まで時間を稼ぎ、死のうとしている。無論、ジギタリスの腕があれば、大多数の海魔を討つことなど造作も無いことなのだが、それでもここに来てからの彼の言動からは「死」を彷彿とさせるような言葉が見え隠れしている。
「ジギタリスはどうして囮になることを選んだの? あの人なら、逆にディルを囮にする方法を取りそうな気がするんだけど」
「それは、」
「僕の異名のせいだよ」
病室にジギタリスは入って来て、ディルを一瞥したのち雅たちに向き直る。
「“現人神”」
自然と雅はジギタリスの異名を口にする。
「そう、よく覚えていたね」
褒めているのか貶しているのか分からない冷笑をジギタリスは見せる。
「ワダツミ様――漢字にすれば“海神様”。君はその現場に居たからよく知っていると思うけれど、あれは“人”ではなく“海魔”を崇めていた新興宗教だったはずだ」
「は、い」
「だから、海魔は怒りを感じない。自らを崇め奉る人間を下等な存在と見ることができるからね。なにより、自らを神と呼ぶことにも、彼らはせせら笑うのさ」
「どういうこと?」
鳴が続きを訊ねる。
「彼らの中に、“神”は居ないんだ。“神”と崇めるものは、無い。ドラゴニュートは始祖様と、海竜を崇めてはいるが、しかし、海竜もまた神では無い。海魔は揃って“神の存在が地上には無いということ”を共有している。これも宗教みたいなものだろうね。海魔の中にあるのは常に一神教、ただし地上に神が居ないことが前提のものさ。どうして知っているかって? 人間の言葉を話す海魔を、ちょっとばかし拷問に掛けてそれなりに訊き出したからだよ。昔の僕の悪い一面さ。目を瞑ってくれとは言わないが、それで情報も得られたんだから見逃してくれるとありがたいとは思う」
「人で無いのなら、構わないと思いますけど。拷問、はちょっと行き過ぎかも知れませんけどそうでもしないと海魔のことなんて一つも分からないと思います。ただ、リィにそんなことをしていたと言うのなら、許すことはできません」
「君はそういうところはクールだね。君が気にしている案件だけれど、あの海竜を拷問しちゃいないよ。むしろどうやって拷問できるんだって話だよ。ただ少しばかり血を抜き取らせてもらって、あとは口から零した水が『穢れた水』なのか、それとも活きた水なのかの検査ぐらいはさせてもらった。それを君が拷問と捉えるのなら、殴ってくれて構わない」
「……殴りたいところですけど、それでなにか分かったことがあったなら、抑えます。リィは無事でしたし」
雅は拳を握りつつも、込み上げていた怒気をゆっくりと宥めて行く。
「そのことについて、分かったこともあるんだけれど、まずは僕が囮として適している理由を話そう。一神教でありながら“この地上には神は存在していないこと”を共有する海魔にとって、“現人神”という僕の異名はどう受け取れる?」
「生きながらにして、神と呼ばれるほどの人」
「でも“死神”だって、神ですよ?」
鳴に続けて雅が訊ねる。
「“死神”のイメージなんて、悪いものだろ。骸骨が大鎌を持って、人の命を刈り取る絵柄。タロットカードも大体は骸骨が鎌を持っている。そして、“死神”とは“死を司る神様”の別解釈として“死した神”とも、読み取れる。さすがに“死んだ神”に文句は言わないさ。けれど“生きている神”が地上に居て、しかもそう呼ばれているのが人間だったなら、海魔はどう思う?」
「自分たちの信じていたことが、間違いだと思います」
「それどころか、海魔ではなく人間がそんな異名を持っていることに、怒りを、覚え、る?」
「二人とも、正解だよ。“生きている神が地上に居ること”とそれが“人間であること”。これが彼らにとっては、許されないことなんだ。だから、僕は囮に適している。ベロニカはケッパーと榎木 楓が追い返し、スルトはナスタチウムが全力で止めたと聞いている。ならば、そうすぐには出て来ないだろう。出て来るとするならば、“ブロッケン”――“影の王”だ。知性ある海魔たる“影の王”が、僕の異名を知りながら放置するわけがない。それは信仰心の崩壊だ。本能だけで動く海魔の中でも、神を崇めることだけは欠かさない。地上に居ないはずの神が居る。それも人間の中に居る。それが、知性を持ち合わせている海魔も含めて、本能だけの海魔だけでも、混乱を招きかねない。だったら、そんな混乱の芽を、早々に摘みに来る」
ジギタリスはそこまで話したところで立ち眩みを覚えたのか、近くのパイプ椅子に腰を降ろした。
「一神教でありながら、“地上には神が居ないこと”は、どうにも繋がりが見えません」
「そう、だから僕は怖ろしい仮説をここに立てる。当たっているか、それとも外れているかは、君たちが目にすることだろうから、よく覚えておいてもらいたい」
人差し指を立てて、ジギタリスは静かに続ける。
「天を仰ぐ頂点の園は、塔の形をしていて、活きた水を日本全土に及ぼすものだ。地を穿つ根底の苑はそれを受け止める器。そして海を貫く深淵の庭は天を仰ぐ頂点の園とは逆に、海に空けられた大穴だ。そこに流れた水が天を仰ぐ頂点の園に汲み上げられ、水は循環する。まぁこれは、海魔側に逆手に取られた場合、非常にまずい効果をもたらす。最優先で破壊しなければならない建造物ということになるわけだが、問題は天、地、深淵が三界を表している可能性があること。天は無色界、地は色界、深淵は欲界。仏教における輪廻、流転の概念がここに完成している」
「だから、なんなんですか?」
「分からないかい? あの忌々しい海魔どもは、卑しくも神を降ろそうとしている。循環、流転、輪廻のある場所には必ず神が存在する。存在しないのならば、神は降りる。これはあってはならないことだ。人間に微笑むべき神が海魔の手によって降ろされたならば、どうなるか」
「そもそも、蛇に謀られた人間が知恵の木の実を食べさえしなければ、この世界に人間は存在せず、蛇もまた地を這うことはなかった。そして、結果的にエデンから追い出された人間は生物界の頂点に立つ存在となった。神の意思に反してか、則してかは、分からないままに」
鳴は呟きながら、ジギタリスの言葉の続きを待つ。
「蛇は爬虫類。海魔もその特徴を持っている。蛇を這わせた神が海魔を作り、人間に試練を与えたもうたならば、海魔が神を降ろした時点で、神はこの世界の頂点に立つべき存在は海魔であるべきだという審判を下すかも知れない。“影の王”、ベロニカ、スルトの目的は神を降臨させること。僕の仮定における結論は、それに至った」
「飛躍し過ぎじゃ、ないですか?」
室内の空調は利いているのだが、雅の体からは表現できない恐怖に対する汗が吹き出しつつあった。
「そもそも、神の存在、なんて……否定するわけじゃ、ありませんけど、じゃぁ降臨するって言われても現実味が、無くて」
「僕は信仰を捨てた身だ。この世に神が居ることも、もう信じちゃいない。けれど、この世では無い場所に居る可能性は捨て切れない。次元を超越するベロニカの力を見たときから、全て神の手の中にあるのではと、疑いを晴らすことができない。海魔の誕生、人間の覚醒。それはまるで、行き過ぎた人間に対する罰であり、この世で生きるに値するかどうかを見定める最終審判であるかのように」
「私も、信じられない。でも、神話にはあるよ? 天上の神と地獄の神――天の神と地の神。総じて仲が悪いことが、多いけれど……」
「降ろす神が天の神か、それとも地の神か。それは分からない。だが、もしもこの仮定が事実であるのなら、海魔が降ろすのは天などという遠いところにある神ではなく、深淵という名の地獄に眠る神だろう」
とんでもない話に眩暈すら覚える。雅は虚空を見つめているディルに視線を向けたあと、俯いた。




